ダコタ族の降伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 18:44 UTC 版)
ウッドレイクの戦いの直ぐ後、ダコタ族戦士の大半は9月26日に「釈放基地」で降伏した。この場所はダコタ族が捕虜にした269名の白人達がヘンリー・シブリー大佐の指揮する軍隊によって「釈放」されたことからこの名がついた。この捕虜は162名の混血と107名の白人であり、大半は女と子供だった。しかし、白人から「戦争犯罪人」とされたダコタ族戦士の大半は、シブリーがキャンプ・リリースに到着する前に去っていた。降伏したダコタ族戦士は11月に行われた軍事裁判まで留め置かれた。 12月遅くまでに、2000人以上のダコタ族がミネソタ州の監獄に収監された。彼らの中には女子供を含む、暴動とは全く関係のないダコタ族もいたが、女子どもに対しても白人市民による報復行為が頻発したことから、すべて塀の中に追い込まれた。 リトルクロウは9月に撤退し、短期間カナダに留まったが、間もなくミネソタ地域に戻った。リトルクロウは1863年7月3日にハッチンソンの近くで、10代の息子と共にラズベリーを採集しているところを射殺された。 この二人は白人農夫ネイサン・ラムソンの土地を彷徨っており、ラムソンは州を挙げた「ダコタ族狩り」での賞金(頭の皮一枚25ドル)を稼ぐために、二人を撃ったのである。殺したインディアンがリトルクロウだと分かると、彼らはこの酋長の首を斬り落とし、頭の皮を剥いだ。リトルクロウの頭と頭皮はセントポールで晒しものにされ、1971年までそのままにされた。リトルクロウを殺したことで、ラムソンは500ドルの賞金を獲得した。リトルクロウの息子は死刑判決を受けたが、懲役刑に減刑された。 シャコビー酋長とワカン・オ・チャンチャン(メディシン・ボトル)酋長もしばらくカナダに隠れていたが、米軍に発見され、麻酔薬を飲まされて犬ぞりに縛りつけられ、合衆国に連れ戻された。
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