ダコタ族に対する一斉絞首刑
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「ダコタ戦争」の記事における「ダコタ族に対する一斉絞首刑」の解説
1862年12月26日、クリスマスの翌日に、ミネソタ州マンケイトのスネリング砦でダコタ族死刑囚たちの一斉絞首刑が行われた。前代未聞の38人同時処刑は、インディアンたちの絞首の様子が四方から見ることが出来る特別誂えの絞首刑台で行われた。一斉処刑の際には、興奮した白人群衆が処刑場に詰めかけ、軍によって公開規制が行われたほどだった。「38人の囚人に対する一斉死刑執行」は、現在に至るまで、アメリカ史の中でも最大の集団処刑記録を誇っている。 処刑を待つ間に汽車の汽笛を聞いたシャコビー酋長は、次のような言葉を残した。 「白人たちがやってくるにつれ、インディアンたちはいなくなる。」 一斉絞首刑の瞬間の、見物人たちの反応について次のような証言が残っている。 「床が落ちると、兵士や一般市民の間からは、低い歓喜の声がいつまでも漏れていた。」 連隊付き軍医がインディアン囚人の死亡宣告を行い、インディアンの死体は川堤の砂地に掘られた壕にまとめて放り込まれ埋葬された。しかし埋葬前に「シェアダウン博士」という渾名の素性の知れない者がインディアンの皮を剥いだといわれている。噂に拠れば、その皮を入れた小さな箱が、後にマンケイトで売られたという。 また、当時解剖学研究のため、死体には高い需要があったので、何人かの医者は処刑後の死体を要求した。墓が暴かれ、死体は地元の医者達に分け与えられた。マーピヤ・オキナジンの死体を受け取った医者がウィリアム・ウォーラル・メイヨーだった。何年か後に、メイヨはマーピヤ・オキナジンの死体をルシュールに運び、医者仲間の前で解剖した。その後骸骨を洗い乾燥しワニスを塗って、自分の自宅兼事務所の鉄製ケトルに保管した。マーピヤ・オキナジンや他のインディアンの遺骸と識別されるものは後に、アメリカ先住民の墓地の保護と遺品の送還法に従い、メイヨー・クリニックによってダコタ族に返還され、再度埋葬された。
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