タイガーマスク(2代目)として活躍
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「三沢光晴」の記事における「タイガーマスク(2代目)として活躍」の解説
1984年春、三沢は越中とともにメキシコへ遠征に出発した。当初は越中・三沢ともに本名で試合に出場していたが、後に越中は柔道や空手を連想させる白の道着風のロングトランクスに「必勝」と書かれた鉢巻を巻いて日章旗を持った出で立ちの『サムライ・シロー』、三沢は赤ラメのジャンパーに白いラインが入った赤のロングタイツという出で立ちの『カミカゼ・ミサワ』というリングネームに改名して試合に出場していた。しかし、数か月が経ったある日、三沢は馬場から国際電話で「コーナーポストに飛び乗れるか」と問われ、飛び乗れると答えたところ直ちに帰国するよう命じられた。三沢は7月22日にメキシコから日本へ極秘帰国し、馬場から2代目タイガーマスクとなるよう命令を受ける。三沢は初代タイガーマスク(佐山聡)のファンから二番煎じ扱いされるのではと抵抗を感じたが、2代目タイガーマスクは全日本、ジャパンプロレス、梶原プロダクション、日本テレビによる一大プロジェクトとなっており、すでにデビュー戦のスケジュールは組まれていた。 2代目タイガーマスクとなった三沢は7月31日の蔵前国技館大会にてお披露目され、8月26日に行われた田園コロシアム大会でのラ・フィエラ戦でデビューした。当初はジュニアヘビー級戦線で活躍し、初代の佐山を相手に「虎ハンター」と称された小林邦昭との抗争を展開。1985年8月31日には小林を破ってNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を獲得したが、同年10月にヘビー級に転向した。 1986年にはアメリカに遠征し、4月19日にNWAのジム・クロケット・プロモーションズがルイジアナ州のスーパードームで開催したタッグチーム・トーナメント "Crockett Cup" に馬場とタッグを組んで参戦、シード出場した2回戦でジミー・ガービン&ブラック・バートに勝利したものの、準々決勝でロニー・ガービン&マグナムTAに敗退した。4月20日にはミネソタ州のメトロドームで開催されたAWAの "WrestleRock 86" に出場、AWA世界ライトヘビー級王者バック・ズモフから勝利を収めた。1988年1月2日には後楽園ホールにて、カート・ヘニングが保持していたAWA世界ヘビー級王座に挑戦している。 タイガーマスク時代の三沢は、初代タイガーマスク(佐山聡)が確立した華麗な空中技を受け継ぐ必要に迫られた。これでは三沢が本来目指すプロレスを前面に出せないことを意味し、三沢はそのことに苦しんだ。そのため三沢はヘビー級に転向した理由について、「ファンが望む空中技をふんだんに取り入れつつも、2代目タイガーマスクとしての個性の確立を目指すようになったためであった」と説明している。空中技を多用したことで三沢の膝には負担がかかり、左膝前十字靱帯断裂を引き起こし、負傷箇所の手術を受けるため1989年3月から1990年1月にかけて長期欠場を余儀なくされた。 三沢のタイガーマスク時代に全日本プロレス中継の実況アナウンサーを務めていた倉持隆夫によると、三沢にはアメリカのプロレス界ではマスクマンは負け役で地位が低いという意識があり、そのため取材の際には本名で呼びかけないとまともな受け答えをしてもらえなかったと回顧している。倉持はタイガーマスク時代の三沢を「劇画のヒーローになったのだから、もっと劇画の世界のように、奇想天外な、自由奔放な発言をして、メディアを煙に巻くぐらいの話をすればいいのに、根が真面目な三沢青年は、最後までマスクマンレスラーになれなかったのだ」と評している。タイガーマスク時代の三沢は自己主張を強く行わなかったため、「口の重い虎戦士」と呼ばれた。週刊ゴング元編集長の小佐野景浩は2代目タイガーマスクとしての三沢について、「ヒーローは常に強くなければいけないのに、『やられてばかりで勝てないタイガーマスク』という印象が強い」とし、日本人・外国人選手にしても相手は格上ばかりだったためどうしても受けのファイトになってしまったこと、また当時の全日本は両者リングアウトなどの不透明決着で終わる試合が多かったことで三沢の勝率も決して高くはなかったため、「その意味で三沢タイガーは気の毒だった」と述べている。ただし、2代目タイガーマスクとして受けに回っている場面を多く経験したことで、「それは後の"不屈の三沢"を培ったと思う」と述べている。 なお、全日本では「タイガーマスクは1年に1つ新しい技を開発する」と宣伝していたため、三沢がタイガーマスク時代に開発した技の名前には「タイガー・スープレックス'84」といった具合に開発年がついている。ちなみに、三沢は2代目タイガーマスクとして活動していた最中の1988年5月に結婚したが、その際に記者会見で夫人がマスクを脱がせる演出によって4年5か月ぶりに公の場で素顔となって正体を明かし、その上で2代目タイガーマスクとしての活動は続行するという、覆面レスラーとしては異例の行動に出ている。
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