ソロンとアテナイ人の性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 02:50 UTC 版)
ある著者によれば、アテナイ人社会の調整者としてソロンは、アテナイの性風俗を、正式なものとしたとされる。喜劇の脚本家であったフィレモンの、「兄弟たち」 "Brothers"という作品の中に残存している断片によると、性的な喜びを享楽することを民主化"democratize"するために、公的に出資された売春宿をアテネに設立した、とされる。この喜劇の脚本の記述の真実性への疑義は、避けようのないことである。しかし、少なくとも一人の現代の作家は、ソロンの死から約300年の古代のアテネにおいて、ソロンの改革と、異性愛の喜びを享楽する機会の増加を結びつける講演があったことは、特筆すべきことだと考えている。古代の著者は、一方で、ソロンはアテナイにおける少年愛(同性愛)を規制した、とも言っている。これは、ポリスの新しい構造に対する慣習の適応として、示された。様々な著者によると、古代の立法者(つまりソロンのことも含意している)は、一連の法律を起案するにあたって、同性愛の制度を促進し、保護し、そして自由民に対してはそれを制御するように、意図したとされる。とりわけ、演説者アイスキネスは、奴隷を格闘場から追放し、市民の息子たちと少年愛の関係になることを禁止した法律について言及している。ソロンの法についての、アイスキネスのような紀元前4世紀の演説者による説明は、多くの理由から、あてにならないと考えられる。 屋根裏部屋の嘆願者は、彼らの事案に沿うものなら、ソロンのせいにすることもためらわない。そして、後の作家たちは、早い時期の仕事と遅い時期の仕事を区別するいかなる判断基準も持たなかった。また、判断基準を完全に仕上げるものは無く、ソロンの法令の正真正銘の収集物は、古代の学者たちが参考にするものは残らなかった。 主張されているソロンの少年愛への関与の立法の観点に加えて、個人的な関与の示唆が存在する。古代の著者によれば、ソロンは未来の僭主である、ペイシストラトス を彼の「少年愛の相手」"eromenos"だと考えていた、とされる。アリストテレスが紀元前330年頃に書いてたものによれば、アリストテレスはその意見に反論を試みた。彼の主張は「ソロンがペイシストラトスの恋人であったと偽っている人間が、たわごとを言っているのは明白である。なぜならソロンとペイシストラトスの年齢がそれを許さないから。」ソロンはペイシストラトスより約30歳上であるから、というものである。それにも関らず(この2人の関係は、)言い伝え続けられた。4世紀後、プルタルコスはアリストテレスの疑念を無視し、彼自身の憶測で補足しながら、以下の逸話を記録した。 そして、人々はソロンがペイシストラトスを愛したと言った。私が推測するところによると、統治に関して彼らが意見を違えた後、敵意がいかなる怒りと暴力的な感情も生み出さなかったこと、そこにその根拠がある。彼らはかつての思いやりの感情を覚えていたのではないだろうか。そして彼らの愛と親しみの優しい気持が、「まだその燃えさしの中に強い炎が生きていた」のだろう。 プルタルコスの一世紀後のアイリアノスも、ペイシストラトスはソロンの「少年愛の相手」"eromenos"だと言った。(少年愛の)説の持続にも関わらず、それが、歴史的な説明なのか、作り話なのか知られていなかった。(僭主となったペイシストラトスが)自己と、自分の息子の統治を合法化するために、平和で幸せなソロンとペイシストラスの共存を紹介する言い伝えがペイシストラトスの統治の間に育まれたのではないか、と言われている。その情報源がなんであろうと、後の世代は談話として聞いたことに信用を置く。ソロンの推定されている少年愛の欲望は、ソロンのの詩の中の表現に見つけられなければいけない大昔の考えだが、詩は今日では、少ない残存している断片からしか示されない。しかし、ソロンの作とされる全ての詩の断片の信ぴょう性は、不明確である。特にいくつかの古代の資料からソロンのものとされた少年愛的アフォリズムは、他の資料によってテオグニスのものであるとされた。 (#改革者として、詩人としても参照)
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