センター病院開院と黎明期の発展とは? わかりやすく解説

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センター病院開院(1962年)と黎明期の発展(1960年代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 04:24 UTC 版)

国立がん研究センター」の記事における「センター病院開院1962年)と黎明期発展1960年代)」の解説

当初の計画大幅にずれ込み1962年5月センター病院開院久留が「年増芸者お白粉塗ったくったようだった」 と振り返るように、当時建物亀裂入った壁や雨漏りのする病室あちこちにある、ひどい環境であったまた、開院当初は、学閥無視して全国各地大学から業績主義によって気骨のある医師集めたために、カルテ様式手術方式まちまちであり、たとえば、手術場合は、久留院長久留外科方式東大の人は東大方式慶応の人は慶応方式といったありさまであった。しかし、やがて、こうした初期混乱期は、「久留天皇」の異名をとった久留院長陣頭指揮と、各分野エキスパートたちの切磋琢磨によって乗り越えられていくことになった。とくに、大学病院流の各科並列セクショナリズム廃し臓器単位横断的診療体制確立され、各臓器症例検討は、深夜に及ぶまで活発な議論交わされた。 また、開院後のもう一つ混乱として、当時の総婦長石本茂推進した高レベル看護体制」に対す医師反発挙げられる石本は、がんセンター通常の病院異なり重傷のがん患者抱えており、充実した身体的精神的ケア要されることから、「単なる医師小間使い雑役係を乗り越えなければならない考えたのである。この構想は、多く医師反発にあいながらも、着実に実践されていくことになった。しかし、病院職員定員限られており、看護体制充実という理想定員増のない現実の間の葛藤は、今日まで続いている。 他方で、研究所の方では、研究所長の中原が、病院附属臨床研究所といった色彩強かった当初の構想飛び越え基礎研究重視研究所づくりを進めた。しかも、若い人材が多く生化学分子生物生物物理薬理有機化学実験病理など分野多岐にわたっており、病理畑の勢力強かった当時の癌学会のなかでは「あんなやり方で、がん研究など出来訳がない。あれは、中原先生ホビーだ」 という声もあがっていた。しかし、幅広い基礎研究土台にした研究所は、臨床研究では得られない数多く国際的な成果挙げていくことになった開設後最初十年は、胃がん肺がん早期診断法肝硬変肝がん安全な外科手術法ががんセンター中心に確立され研究所では動物実験胃がん発生させることに成功するなど、「がんの学問世界では国立がんセンター業績一頭地抜いて輝いた時代であった」。さらには1968年以後タイ国がんセンター設立参画したり、1971年にはWHOの国際胃がん情報センター附設するなど、国際的に注目期待集めようになった

※この「センター病院開院(1962年)と黎明期の発展(1960年代)」の解説は、「国立がん研究センター」の解説の一部です。
「センター病院開院(1962年)と黎明期の発展(1960年代)」を含む「国立がん研究センター」の記事については、「国立がん研究センター」の概要を参照ください。

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