センター病院開院(1962年)と黎明期の発展(1960年代)
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「国立がん研究センター」の記事における「センター病院開院(1962年)と黎明期の発展(1960年代)」の解説
当初の計画が大幅にずれ込み、1962年5月、センター病院が開院。久留が「年増芸者がお白粉を塗ったくったようだった」 と振り返るように、当時の建物は亀裂の入った壁や雨漏りのする病室があちこちにある、ひどい環境であった。また、開院当初は、学閥を無視して全国各地の大学から業績主義によって気骨のある医師を集めたために、カルテの様式も手術の方式もまちまちであり、たとえば、手術の場合は、久留院長は久留外科方式、東大の人は東大方式、慶応の人は慶応方式といったありさまであった。しかし、やがて、こうした初期の混乱期は、「久留天皇」の異名をとった久留院長の陣頭指揮と、各分野のエキスパートたちの切磋琢磨によって乗り越えられていくことになった。とくに、大学病院流の各科並列のセクショナリズムを廃し、臓器単位の横断的な診療体制が確立され、各臓器の症例検討は、深夜に及ぶまで活発な議論が交わされた。 また、開院後のもう一つの混乱として、当時の総婦長・石本茂が推進した「高レベルの看護体制」に対する医師の反発が挙げられる。石本は、がんセンターが通常の病院と異なり、重傷のがん患者を抱えており、充実した身体的、精神的ケアが要されることから、「単なる医師の小間使いや雑役係を乗り越え」なければならないと考えたのである。この構想は、多くの医師の反発にあいながらも、着実に実践されていくことになった。しかし、病院職員の定員は限られており、看護体制の充実という理想と定員増のない現実の間の葛藤は、今日まで続いている。 他方で、研究所の方では、研究所長の中原が、病院附属臨床研究所といった色彩の強かった当初の構想を飛び越え、基礎研究重視の研究所づくりを進めた。しかも、若い人材が多く、生化学、分子生物、生物物理、薬理、有機化学、実験病理など分野も多岐にわたっており、病理畑の勢力の強かった当時の癌学会のなかでは「あんなやり方で、がん研究など出来る訳がない。あれは、中原先生のホビーだ」 という声もあがっていた。しかし、幅広い基礎研究を土台にした研究所は、臨床研究では得られない数多くの国際的な成果を挙げていくことになった。 開設後最初の十年は、胃がん、肺がんの早期診断法、肝硬変、肝がんの安全な外科手術法ががんセンターを中心に確立され、研究所では動物に実験胃がんを発生させることに成功するなど、「がんの学問の世界では、国立がんセンターの業績が一頭地を抜いて輝いた時代であった」。さらには、1968年以後、タイ国立がんセンターの設立に参画したり、1971年にはWHOの国際胃がん情報センターを附設するなど、国際的にも注目と期待を集めるようになった。
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