スターリン独裁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 05:14 UTC 版)
1924年のレーニンの死後、ソ連の最高権力者の一人となったスターリンは再び強硬な社会主義化路線に戻り、1928年に第一次五ヶ年計画を開始して、農業の集団化、重工業に大きく偏った国家主導の工業建設を強行した。ボリシェヴィキから改組されソ連における独裁政党となった共産党内部の批判派は一掃され、亡くなったレーニンと、その後継者であるスターリンへの個人崇拝まで行われるに至った。 社会主義を掲げたソ連は1930年代に世界を揺るがした世界恐慌の影響を全く受けず、大きな経済成長を成し遂げた。しかし、その経済成長は大量の政治犯や思想犯を中心とした強制労働(実質的な奴隷制)に支えられ、その富は共産党の上層部に集中して配分されており、実情を知らない資本主義国家群の知識人(ジョージ・バーナード・ショーなど)からは、ソ連が理想社会のように受け止められた。 これは1936年に制定されたソ連の新憲法(スターリン憲法)が民主主義の発展と国民の幅広い権利の擁護を明記したためでもあるが、実際にはこの憲法の精神は全く省みられることはなく、むしろ堕児禁止法など家庭関係の強行に関して、民意に反する党の転換を多くの人々が不安に思い始めていた頃であった。また、ちょうどこの時期に党の指導派と反対派双方の粛清が大規模に行われた。これは社会民主労働党内におけるレーニンのメンシェヴィキ粛清よりも大規模なものであり、この時期に粛清された共産党幹部や国民の多くには、党の指導性に挑戦した「反党分子」、「反革命分子」、「トロツキスト」の汚名が着せられるなど過酷な政治が行われていた。 ただし、このスターリンによる社会主義体制は、数百万人とも数千万人とも言われる大量の人々の餓死、処刑、流刑を招いた一方、大地主や貴族への富の偏在、特に農村部における絶対的貧困や公衆衛生の立ち後れなど、帝国政府が数百年にわたって解決できなかった社会的問題に対して一定の成果を挙げた。道路などインフラの分野は(ソ連末期に至るまで深刻な問題であった農業の発展を犠牲にする形で)ある程度は整った。諸外国の技術者が不可能と断言したモスクワ地下鉄を三年で完成させるなど、政府が直接指導するものだけなら技術面でも世界のかなり上位にいた。 ノルマと呼ばれる計画生産数値の設定、巨大な工場群であるコンビナート、陣地に大量配備されたトーチカは生産物の質より量が重視されたこの時代では一定の効果があり、ソ連の力を高めた。また、中長期的な経済目標を国家が設定する方式は世界恐慌を食い止められなかった資本主義諸国にも影響を与え、ケインズ経済学による公共投資の重視やアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領によるニューディール政策の実施、西ヨーロッパ諸国、特にフランスやイタリアで採用された混合経済体制の構築につながった。また、ナチズムを掲げるナチス・ドイツでも四ヶ年計画による経済建設と軍備増強が行われた(統制方法についてもスターリン型社会主義を参考にしたという意見もある)。
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