スウェーデン領リヴォニア時代とは? わかりやすく解説

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スウェーデン領リヴォニア時代(1629-1721)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 04:41 UTC 版)

ラトビアの歴史」の記事における「スウェーデン領リヴォニア時代(1629-1721)」の解説

スウェーデンリヴォニア戦争最中リヴォニア進出していたが、すでにこの地域支配領域組み込みつつあった当時同盟国である共和国支配をゆだね、撤退していた。その後両国は、王位継承問題巡り敵対関係となったリヴォニア戦争後勢力衰微したスウェーデンであったが、近代国家創設及びバルト海内海とすべく1605年リヴォニア侵攻した。これは、広義1598年に始まるスウェーデン・ポーランド戦争一戦であったが、キルホルムの戦いで軍事的に圧倒的な共和国軍前にスウェーデン軍惨敗喫した共和国との圧倒的な軍事力の差見せ付けられたスウェーデンは、1611年スウェーデン王となったグスタフ2世筆頭国政軍事改革断行した。そして1620年神聖ローマ帝国各地視察し1621年リガ攻略戦となる第一次スウェーデン・ポーランド戦争開始するのであるグスタフ2世スウェーデン軍は、1605年陥落させることの出来なかったリガを数週間攻略したこの段階ですでにリヴォニア分断されていたが、なおもグスタフ2世リヴォニア全土征服目論んだ。しかしドイツ起こっていた三十年戦争における外交優先し一端両国休戦したその後1625年戦争再開され1626年初頭のヴァルホフの戦いで共和国軍撃破しリヴォニア大部分征服することに成功するが、リヴォニア最南部のラトガレ攻略は、すべて共和国軍によって打ち砕かれた。ポーランド本土戦役での大苦戦合わせスウェーデンの軍事敗北必至であったが、フランス王国介入グスタフ2世政治力によって切り抜け1629年アルトマルク休戦協定結ばれた。この協定は、あくまで休戦協定であったが、1635年のストゥムスドルフの和約ではリヴォニア問題とはならなかった(1635年段階スウェーデン側では、リヴォニア正式にスウェーデン領に編入された)。共和国1660年になってスウェーデンリヴォニア英語版)を認めスウェーデン主権確定したが、1629年協定によって戦争事実上終結しており、この時に正式にリヴォニア分割された。 この協定の後にスウェーデンリヴォニアとなった大部分リヴォニアは、スウェーデン統治下に置かれることとなった。そしてリヴォニア貴族は、エストニア公国同様の地域議会の権限特権獲得するのである実際には、バルト・ドイツ人貴族のみで、全リヴォニア貴族ではなかった)。さらに教会改革行われ、この地域プロテスタント化(主にルター派されるのである。スウェーデンからは総督派遣されスウェーデン影響力征服後年々増加して行ったが、この地域事実上支配者は、バルト・ドイツ人であった。さらにリヴォニア最大の都市リガは、バルト海東岸重要な海港となり、スウェーデン・バルト帝国におけるストックホルムに次ぐ第二の都市として発展して行く。しかし対照的にエストニア人ラトビア人そのような恩恵受けられず、農奴地位置かれることとなった1680年国政改革乗り出したスウェーデン王カール11世は、バルト・ドイツ人の強い反発を受けながらも絶対王政によってリヴォニア直接統治下とした。この時、バルト・ドイツ人特権剥奪抗議したのが、バルト貴族ヨハン・ラインハルト・フォン・パトクルであった。パトクルは大逆罪宣告され外国逃亡したが、1698年から1699年にかけてスウェーデン敵対する諸国糾合し、北方同盟結成された。翌1700年から20年渡り大北方戦争開始された。[要出典]その戦争初期スウェーデン王カール12世スウェーデン軍は、エストニア上陸してロシア軍撃破したナルヴァの戦い)。1701年には、リガ包囲していたポーランド軍対しスウェーデン軍ドヴィナ川強行渡河してポーランド軍打ち破りリガ救出したドヴィナ川戦い英語版))。その後スウェーデン軍南下しスウェーデン共和国との戦争掛かり切りとなっている間に、ロシア戦力立て直してバルト地方侵攻し1710年エストニアと共にリヴォニア占領したスウェーデン1709年ロシアとのポルタヴァの戦い大敗喫しており、すでに戦争帰趨決していた。そして1721年スウェーデンロシアとの間にニスタット条約締結されスウェーデンバルト海支配終焉迎えた同年ロシア帝政となり、北東最強国家として君臨することとなる。なお、ロシアピョートル1世は、廃止され地方議会特権復活させた。これは、バルト・ドイツ人リヴォニア事実上支配者であることを、初期ロシア帝国認識していたからであった

※この「スウェーデン領リヴォニア時代(1629-1721)」の解説は、「ラトビアの歴史」の解説の一部です。
「スウェーデン領リヴォニア時代(1629-1721)」を含む「ラトビアの歴史」の記事については、「ラトビアの歴史」の概要を参照ください。

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