スウェーデン領リヴォニア時代(1629-1721)
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「ラトビアの歴史」の記事における「スウェーデン領リヴォニア時代(1629-1721)」の解説
スウェーデンはリヴォニア戦争の最中、リヴォニアに進出していたが、すでにこの地域を支配領域に組み込みつつあった当時の同盟国である共和国に支配をゆだね、撤退していた。その後両国は、王位継承問題を巡り敵対関係となった。リヴォニア戦争後、勢力が衰微したスウェーデンであったが、近代国家の創設及びバルト海を内海とすべく1605年にリヴォニアに侵攻した。これは、広義の1598年に始まるスウェーデン・ポーランド戦争の一戦であったが、キルホルムの戦いで軍事的に圧倒的な共和国軍の前にスウェーデン軍は惨敗を喫した。共和国との圧倒的な軍事力の差を見せ付けられたスウェーデンは、1611年にスウェーデン王となったグスタフ2世を筆頭に国政・軍事改革を断行した。そして1620年に神聖ローマ帝国の各地を視察し、1621年にリガ攻略戦となる第一次スウェーデン・ポーランド戦争を開始するのである。グスタフ2世のスウェーデン軍は、1605年に陥落させることの出来なかったリガを数週間で攻略した。この段階ですでにリヴォニアは分断されていたが、なおもグスタフ2世はリヴォニア全土の征服を目論んだ。しかしドイツで起こっていた三十年戦争における外交を優先し、一端両国は休戦した。その後、1625年に戦争は再開され、1626年初頭のヴァルホフの戦いで共和国軍を撃破し、リヴォニアの大部分を征服することに成功するが、リヴォニア最南部のラトガレの攻略は、すべて共和国軍によって打ち砕かれた。ポーランド本土戦役での大苦戦と合わせ、スウェーデンの軍事的敗北は必至であったが、フランス王国の介入とグスタフ2世の政治力によって切り抜け、1629年にアルトマルク休戦協定が結ばれた。この協定は、あくまで休戦協定であったが、1635年のストゥムスドルフの和約ではリヴォニアは問題とはならなかった(1635年の段階でスウェーデン側では、リヴォニアは正式にスウェーデン領に編入された)。共和国は1660年になってスウェーデン領リヴォニア(英語版)を認め、スウェーデン主権が確定したが、1629年の協定によって戦争は事実上終結しており、この時に正式にリヴォニアは分割された。 この協定の後にスウェーデン領リヴォニアとなった大部分のリヴォニアは、スウェーデンの統治下に置かれることとなった。そしてリヴォニアの貴族は、エストニア公国と同様の地域議会の権限と特権を獲得するのである(実際には、バルト・ドイツ人の貴族のみで、全リヴォニアの貴族ではなかった)。さらに教会改革も行われ、この地域はプロテスタント化(主にルター派)されるのである。スウェーデンからは総督が派遣され、スウェーデンの影響力は征服後、年々増加して行ったが、この地域の事実上の支配者は、バルト・ドイツ人であった。さらにリヴォニア最大の都市リガは、バルト海東岸の重要な海港となり、スウェーデン・バルト帝国におけるストックホルムに次ぐ第二の都市として発展して行く。しかし対照的にエストニア人やラトビア人はそのような恩恵は受けられず、農奴の地位に置かれることとなった。 1680年、国政改革に乗り出したスウェーデン王カール11世は、バルト・ドイツ人の強い反発を受けながらも絶対王政によってリヴォニアを直接統治下とした。この時、バルト・ドイツ人の特権剥奪に抗議したのが、バルトの貴族ヨハン・ラインハルト・フォン・パトクルであった。パトクルは大逆罪を宣告され、外国へ逃亡したが、1698年から1699年にかけてスウェーデンと敵対する諸国を糾合し、北方同盟が結成された。翌1700年から20年に渡り大北方戦争が開始された。[要出典]その戦争初期、スウェーデン王カール12世のスウェーデン軍は、エストニアに上陸してロシア軍を撃破した(ナルヴァの戦い)。1701年には、リガを包囲していたポーランド軍に対し、スウェーデン軍はドヴィナ川を強行渡河してポーランド軍を打ち破り、リガを救出した(ドヴィナ川の戦い(英語版))。その後、スウェーデン軍は南下し、スウェーデンが共和国との戦争に掛かり切りとなっている間に、ロシアは戦力を立て直してバルト地方へ侵攻し、1710年にエストニアと共にリヴォニアを占領した。スウェーデンは1709年のロシアとのポルタヴァの戦いで大敗を喫しており、すでに戦争の帰趨は決していた。そして1721年にスウェーデンとロシアとの間にニスタット条約が締結され、スウェーデンのバルト海支配は終焉を迎えた。同年にロシアは帝政となり、北東欧最強の国家として君臨することとなる。なお、ロシアのピョートル1世は、廃止された地方議会と特権を復活させた。これは、バルト・ドイツ人がリヴォニアの事実上の支配者であることを、初期のロシア帝国が認識していたからであった。
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