スウェーデン領ポメラニアにおける軍事行動
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「ポメラニア戦役 (1715年-1716年)」の記事における「スウェーデン領ポメラニアにおける軍事行動」の解説
大北方戦争(1700年-1721年)中の1711年8月29日、国王フレゼリク4世の指揮下にメクレンブルクを発ったデンマーク軍が、ダムガルテン(ドイツ語版)からスウェーデン領ポメラニアへと侵攻した。同地のスウェーデン軍は、カール・グスタフ・デューカー(ドイツ語版)大佐率いる8,000名のみであった。また同年9月の初頭、ロシア軍とザクセン軍(英語版)がデンマーク軍に加わる。この軍団はノイマルク(英語版)とウッカーマルク(英語版)を経由し、ほどなくデンマーク軍に合流したのである。数的劣勢に立たされたスウェーデン軍は、それゆえシュテッティーン要塞(ドイツ語版)、シュトラールズントとリューゲン島に防衛線を引き下げた。 1711年9月7日以降、連合軍は初めてシュトラールズントの攻囲に至った。しかし同軍には重砲もなく、約30,000名の兵力を養うだけの兵糧も不足していた 。同年12月8日、シュトラールズントを支援するべくスウェーデン軍6,000名がリューゲン島に上陸すると、連合軍は1712年1月7日、17週間に及んだ攻囲戦を打ち切って撤退し、メクレンブルクで冬営に入る。 1712年5月、改めてロシア軍がポンメルンに進攻し、ザクセン軍7,000名とロシア軍38,000名の連合軍をもってシュトラールズントに対する2回目の攻囲戦を敢行した。しかし同年9月26日、スウェーデンのマグヌス・ステンボック元帥率いる10,000名がリューゲン島に上陸するとシュトラールズントの攻略は不可能となり、攻囲戦は再び失敗に終わった。しかし、ステンボック元帥のための補給物資はリューゲン沖の海戦(ドイツ語版)でスウェーデン軍の輸送艦隊が壊滅した時、デンマーク海軍によって沈められた。それでも1712年の末、元帥は連合軍をポンメルンから撃退し、戦線をメクレンブルクやホルシュタインへ移すことに成功する。 その後、勝利を収めた連合軍がホルシュタインから再びポンメルンに進攻すると、1713年6月にはシュトラールズントが3回目の攻囲を受けた。しかし、それは10月に中断されている。同年8月にはアレクサンドル・メーンシコフ将軍率いるロシア軍とザクセン軍が、4,300名の守備隊を擁するシュテッティーンへの攻撃を始めていた。この町は同年9月13日、ザクセン軍が攻城砲で実施した8時間にわたる砲撃によって町の大部分が破壊された末、降伏する。同年10月6日、交渉と連合軍に対する400,000ライヒスターラーの支払いを経てプロイセンの部隊がシュテッティーンに入城した。その間にスウェーデン領ポメラニアは、シュトラールズントを除いて完全にデンマーク、ロシアとザクセンの連合軍に征服され、中立国であるプロイセンに占領されていたのである。 スウェーデン国王カール12世が自身の頭越しに結ばれたこの協定への賛同を拒絶したため、プロイセンは冗長な交渉の末に中立的な外交姿勢を捨て、まず1714年6月12日にロシアと条約を締結(ドイツ語版)し、フォアポンメルンの領土をペーネ川まで最終的に獲得する確約を得た。後に同じ意味の条約をデンマーク、イギリス(ハノーファー)、ザクセンの各国とも取り交わしている。
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