ジャン=フランソワ・コワニェ
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「サン=テティエンヌ国立高等鉱業学校」の記事における「ジャン=フランソワ・コワニェ」の解説
1855年にサン=テティエンヌ坑夫学校を卒業した。ジャン・フランシスク・コワニエは、幕末の動乱も終末を迎えた1867年に来日し、薩摩藩命により1年間、薩摩、大隅、日向の3国の鉱産地を見学した。翌年、1868年に明治維新を迎えた。コワニェは明治新政府のお雇い外国人第1号となって、生野銀山に技師長として赴任した。明治新政府とコワニェの間で交わされた雇用契約書が残されている。その頃、生野銀山は衰退していた。これは、江戸時代の排水通風の技術では、全ての坑道が作業を中断せざるを得ないところまで堀尽くされたためだった。コワニェは当初銅鉱石の開発を提案した。しかし、鉱床の調査および各地の鉱石を分析した結果、それまでの金銀の分離技術に問題があることが判明した。金品位の高い鉱石の発見により、コワニェは採掘計画を銅から金銀に変更した。コワニェは生野銀山の近代化とともに、生野に鉱山技術者の養成したり、生野から飾磨までの道路を改修して馬車道を新設したり、飾磨港の工事を行ったりした。彼の生野鉱山での810間に、フランスから地質家、鉱山技師(サン=ティエンヌ坑夫学校の出身者2名;セヴォス、オーシェ)、坑夫、医師らを呼び寄せた。その総数は24名に達した。コワニェは日本滞在中各地の鉱山調査も併せて行い、1874年に「日本鉱物資源に関する覚書」(Notes sur la richesse minérale du Japon)を著した。これは日本の地質を大観した最初の記述であろうとされている。この論文は日本の地質構造の概要、日本鉱業の現状、日本古来の採鉱冶金法の概説の3章から構成され、実に多方面にわたり、彼の理論を述べている。鹿児島については、薩摩藩滞在中の観察にもとづく、山ヶ野・芹ヶ野・神殿・鹿篭・錫山などの記載や、野間岬の海百合石灰岩の記載まである。コワニェは教育面も重視し、「仏国の鉱学教師をして生徒を訓導せしめ、生野鉱山を修学実験所となし、人材の輩出を俟たば、事業興隆すべし」と建議した。こうして1869年(明治2年)生野鉱山修学実験所(後の生野鉱山学校)が開設され、コワニェら教授職兼任となった。彼は鉱山地質家としても優れており、伊予の別子銅山や大和の天和銅山など各地の調査にも当たった。また、鹿児島付近では穿孔性の貝化石を含む凝灰岩層が海抜40mも高いところにある事実を指摘し、隆起運動を論じた。その後、1876年(明治9年)夏には工部省鉱山寮の命により、秋田県阿仁鉱山・院内鉱山など東北・北海道の鉱山の調査を行った。日本を去ったコワニェは1877年にフランスに帰ったが、フランスで活躍する機会は与えられなかった。晩年、病弱になったコワニェリヨン、そしてイゼール県と居を移し、サンテテティエンヌで1902年6月18日に亡くなった。彼の亡骸はサンテテティエンヌに埋葬されたが、後にリヨンに隣接するブロン市にあるマリー・コワニェの実家シスレー家の墓に移された。コワニエニェ後、子もなく一人身になったマリー・コワニェは実家のあるリヨンに戻った。マリーは1924年に亡くなるまで、20年以上もリヨンで暮らした。彼女は生野での懐かしい日々をシスレー家の幼い子たちに語っていたそうである。
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