クロード・グラハム=ホワイトの飛行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/05 04:45 UTC 版)
「1910年のロンドン・マンチェスター間エアレース」の記事における「クロード・グラハム=ホワイトの飛行」の解説
クロード・グラハム=ホワイトが最初の挑戦者となった。ロンドン郊外のパーク・ロイヤル(英語版)にあるプラムスホテル側から4月23日午前5時に出発する計画を立てた。ジャーナリストと見物客が午前4時には群がり、さらに多くが自動車で到着し、総数は200から300人に達した。タイムズが記すところでは、空は澄み渡り星が瞬き、気温は低く僅かに霜が降りていた。4時30分に到着したクロード・グラハム=ホワイトは、ファルマン IIIの準備を始めた。機体は構内から地上に引き出され、7気筒50hpのロータリーエンジンが始動した。暖機運転が終わると操縦席に着き、姉妹、母親、そしてアンリ・ファルマンら数名が成功を祈った。5時12分頃、霜で凍った草の上を30から60ヤード(27 - 54m)滑走して離陸した 。離陸後、デイリー・メール社から5マイル以内という条件を満たすためウォームウッド・スクラブズ(英語版)のガスタンクへ向かった。 ガスタンクの上で待機していた王立飛行クラブの事務局長ハロルド・ペリンがスタートフラッグを振り、クロード・グラハム=ホワイトの挑戦が始まった。応援に集まった数千人の観客が予期したとおり、機体は出発地点上空を通過して北西のウェンブリーへ向かう進路を取った。ワトフォードを5時35分、レイトン・バザード(英語版)を6時15分に通過。観客がロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道(英語版)上空を飛行する機体を迎えた時点で、高度は400フィート(120m)に達していた。その間、ハロルド・ペリンとエンジンを供給したノーム・エ・ローヌの技術者2名は2台の自動車でラグビーへと向かった。しかし、2台の自動車の一方は野原を通過してショートカットを狙ったところ畝で事故を起こし、一人が重傷を負った。 彼は青ざめ、しばらくは歩くのもつらい状態であったと報じられている。それでも彼を応援するために出迎えた人々に微笑もうとしていた。両手はかじかみ、歯はガチガチと鳴っていた。「飢え死にしそうだよ」と食料と暖を求めるのであった。デンビー卿夫人が彼女のマフを貸し、別の夫人が毛皮を首に巻いた。 “ ” タイムズ (1910), reporting on Grahame-White's condition upon landing at Rugby. 最初の着陸地点に選んだラグビーには、7時15分過ぎに到着した。ロンドンを発った自動車は10分前に到着しており、同乗していた技術者が機体のメンテナンスを行った。ロンドンを離陸したニュースはこの地にも届いており、数多くの人々が集まっていた。群衆は、ボーイスカウトによって機体からは隔離された。近くのゲリングス・ファーム(Gellings Farm)でコーヒーとビスケットを食し、これまでの行程について語った。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}ここまで飛行してきた空はあまりに寒く……そして出発時点で私は寒気を感じていた。目は気持ち悪いし、指はとてもかじかんでいるんだ。 この時点で平均速度は推定40mph(64km/h)であり、数台の自動車がロンドンから追ってきていたが、着陸時点で追いついてきたものは無かった。 8時25分ラグビーを離陸。しかし、次の目的地であるクルーにたどり着くことは出来なかった。ラグビーの郊外30マイル(48km)でエンジンの吸込み弁に異常が発生し、リッチフィールド郊外4マイルのヘイドモア(Hademore)の野原に不時着した。この場所は185マイルある全行程の115マイル(185km)地点であった。着陸により降着装置であるスキッドを損傷、技術者は電報で指示を受けた。修理が必要となり、自動車でやってきた母親を見送ると、その間を昼食と数時間の睡眠に充てた。見物客が群衆となり、野原を所有する農家は使用料の請求に現れた。近在の兵舎より兵士が派遣され、機体に群衆が近づきすぎないようにした。 日が沈み、風は勢いを増した。午後7時、強風のために離陸は不可能と判断。制限時間の5時15分までにマンチェスターに到達できる明朝3時に再挑戦を決めた。だが、3時30分になり計画続行を断念し、マンチェスターへ移動して再挑戦することにした。兵士たちに機体を地面へ係留するように求めていたが、指示は無視された。翌日の夜、強風によって機体は大きな損傷を受けることとなった。
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