マンチェスターへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/10 02:29 UTC 版)
「ミッドランド鉄道」の記事における「マンチェスターへ」の解説
1820年代から、ロンドンとイースト・ミッドランズを結ぶ鉄道は提案されており、クロムフォード・アンド・ハイ・ピーク鉄道(英語版)を通じてマンチェスターへとつなぐことが検討されていた。しかしケーブル牽引による旅客列車の運行の実用性は常に疑問視されてきたために、この提案は実現することはなかった。 最終的にミッドランド鉄道は、ロンドン・アンド・バーミンガム鉄道と合流し、同社はアンバーゲート(英語版)からの路線によりマンチェスターへ独自の路線を検討していた。この鉄道はマンチェスター・バクストン・マットロック・アンド・ミッドランズ・ジャンクション鉄道(英語版)として知られ、シェフィールド・アシュトン=アンダー=リン・アンド・マンチェスター鉄道(英語版)からの反対にもかかわらず、1846年に勅許を得た。マットロック(英語版)の数マイル北にあるローズリー(英語版)まで、1849年に開通した。しかし、ロンドン・アンド・バーミンガム鉄道は1846年にロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道に合併されたため、ミッドランド鉄道にとってはパートナーというよりはむしろライバルとなってしまった。 1863年にミッドランド鉄道はバクストンに到達した。ここはちょうど、ロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道がストックポート・ディズリー・アンド・ホエーリー・ブリッジ鉄道(英語版)により他の方向から通じている場所であった。1867年にはミッドランド鉄道はアンバーゲート経由の線の問題を回避するため、現在エクルスボーン・バレー鉄道(英語版)として知られているワークスワース経由の別の路線に着手した。ワークスワースからローズリーまでの路線は手の込んだ工事となったが、1871年にミッドランド鉄道が当初の路線を支配下におさめたため、完成することはなかった。しかしマンチェスターへは未だにバクストンで途切れていた。長い間、マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道との間の協定によりミラーズ・デール(英語版)から分岐してほぼロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道に沿って建設された路線を共有することになっており、これはシェフィールド・アンド・ミッドランド鉄道会社委員会(英語版)として知られていた。 ロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道との摩擦が続いたことから、ミッドランド鉄道はマンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道と合流することになり、グレート・ノーザン鉄道もチェシャー線委員会(英語版)に参加することになり、これによりランカシャーやチェシャーへ、そして最終的にマンチェスター中央駅(英語版)へと拡大する見通しがでてきた。 その間に、シェフィールドはついに本線の駅を手にすることになった。1867年の議会での説明の後、ミッドランド鉄道は直通路線を2年以内に建設すると約束した。ミッドランド鉄道にとって驚くべきことに、シェフィールドの議員はシェフィールド・チェスターフィールド・ベイクウェル・アシュボーン・スタッフォード・アンド・ユートクシター鉄道 (Sheffield Chesterfield Bakewell Ashbourne Stafford and Uttoxeter Railway) という実現しそうもない投機的な会社の立場に立った。これは議会によって当然のように却下され、ミッドランド鉄道は自身の新線をポンド・ストリートの駅まで建設した。この駅は使用する人すべてに嫌われていたため、1905年に建てかえられて、現在のシェフィールド駅(英語版)となった。 ミッドランド鉄道によって建設された主要路線の中で最後となったものが、シェフィールドとマンチェスター間の接続で、ドア(英語版)からチンリー(英語版)までの1894年に完成した支線によって実現した。これにはトットリートンネル(英語版)とカウバーントンネル(英語版)の建設が行われることになった。この線は現在ではホープ・バレー線(英語版)として知られる。
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