クインティリアヌスの影響
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「クインティリアヌス」の記事における「クインティリアヌスの影響」の解説
クインティリアヌスの『弁論家の教育』の中には、弁論家セネカへの批判がある。クインティリアヌスは執筆にとどまらず、当時支配的だった帝国的な弁論スタイルを修正しようと試み続けたが、そのスタイルの代表がセネカであった。セネカはクインティリアヌスが言及する他の著述家に較べると最近の人物であったが、ポスト=古典的なスタイルを評価する中で、セネカに対する言及は、批判にしろ皮肉な賞賛にしろ、避けられないことだった。「彼のスタイルは、多くの部分のために、不正で極端に危険であるのは、それが人を引きつける欠点に満ちているからである」(10.1.129)とクィンティリアヌスは信じていた。セネカはそのスタイルが時々魅力的だったので、二重に危険であると見なされていた。セネカを読むことは、「セネカとそのスタイルに付随して起こる判断に重く影響を及ぼす」。 ラテン語の詩人マルクス・ウァレリウス・ マルティアリス(en: Martial)が86年に公刊した短い詩はクインティリアヌスに向けられたものである。「クインティリアヌス、道に迷う若者たちの偉大なる指導者/あなたは誉である、クインティリアヌスよ、ローマのトーガにとって」。しかし、マルティアリスは意味ありげで機知に富む侮辱で知られる人であったから、この賞賛を額面通りに受け取るべきでないのかも知れない。引用したのは冒頭の行だけで、残りはというと、例えば6行目は「彼の父親の調査評価を越えることを望んだ男」と書かれてある。これはクインティリアヌスの野心的側面と、富と地位を追ったことについて語ったものである。 死後、クインティリアヌスの評価は時代によって変動した。教え子だった小プリニウスや、おそらく教え子であったろうユウェナリスは、「教職にあった人間にしては異例の、真面目で俗世の成功した一例」と言及された。3世紀から5世紀にかけて、クインティリアヌスの影響は、たとえばアウグスティヌスらに見受けられる。アウグスティヌスの記号や比喩的な言語に関する論はいくらかはクインティリアヌスに負っている。またヴルガータの校訂者ヒエロニムスの教育理論は明らかにクインティリアヌスの影響が見られる。中世には、『弁論家の教育』は断片のみが存在するだけになっていて、クインティリアヌスの本は忘れられたかに見えたが、中央ヨーロッパで完全な写本が見つかってから、イタリアの人文主義者たちによって再評価された。イタリアの詩人ペトラルカは今は亡きクインティリアヌス宛に、「(あなたが)新しい人文主義的教育のためのインスピレーションを提供した」という手紙を書いた。このクインティリアヌス熱は人文主義者たちの間に広がり、15世紀から16世紀の北ヨーロッパにまで達した。ドイツの神学者にして宗教改革の中心となったマルティン・ルターは、「『彼の教育と、同時に論証的雄弁術、つまり、言葉と行動で最も適切な彼の教え方について』、他のどの著者よりもクインティリアヌスを好んだと主張した」。 これを頂点に、クインティリアヌスの影響はいくぶん衰退はしたようだが、イギリスの詩人アレキサンダー・ポープは、詩で表現した『批評論』の中で、クインティリアヌスについてこう言及している。「我々が知るクインティリアヌスの厳粛にして内容豊富な本の中に/最も公正な規則と最も明瞭な方法が結びついている」。 さらに、「彼は モンテーニュや レッシングのような著者たちにも言及された……しかし彼は文学史に重要な貢献をすることなく、19世紀になると彼は……読まれることもなくなり、編集されることも稀になってしまったように見える」。 比較的最近になって、クインティリアヌスは再び評価されるようになったように見える。文芸批評のアンソロジーの中に取り上げられることがしばしばで、また、教育史においてもなくてはならない存在となっている。クインティリアヌスは「子供中心の教育の最も初期のスポークスマン」であると見なされ、彼の初期児童教育理論について論じられている。また、クインティリアヌスの本は修辞学的体系について大いに充実していることから、職業的著作、修辞学の学生たちに与えるものも少なくない。
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