ガーネット神父の逮捕と裁判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 17:17 UTC 版)
「火薬陰謀事件」の記事における「ガーネット神父の逮捕と裁判」の解説
先述の通り、トマス・ベイツらの「自白」を基に当局は事件にイエズス会が関与していたものとみなし、1606年1月15日にヘンリー・ガーネット神父、ジョン・ジェラード神父、グリーンウェイ神父(オズワルド・テシモンド)に対する指名手配を行った。このうち、ジェラードとテシモンドはうまく当局の目を逃れ、最終的に国外逃亡に成功した。しかし、ガーネットは運が悪かった。ガーネットが潜伏していたハインドリップ・ホール(英語版)は、トマス・ハビントンの家で、同じイエズス会のエドワード・オールドコーン神父の拠点でもあった。ここには他に聖職者の巣穴の構築で有名なニコラス・オーウェンも潜伏していた。ハインドリップ・ホールに当局の捜査の手が入ったのは1月20日のことであり、地方判事とその部下達は、家主であるハビントンの抗議を無視して連日の家宅捜査を続けた。24日にオーウェンとラルフ・アシュリーが空腹に耐えかね投降した。ここでガーネットとオールドコーンはもう少しだけ耐えれば当局は諦めて帰ると踏んでいたが、ハンフリー・リトルトンの逮捕がその予想を阻んでしまった。先述のロバート・ウィンターとスティーブン・リトルトンを匿っていたが当局に見つかり、逃亡したハンフリーはスタフォードシャーのプレストウッドにて逮捕された。その後、ウスターで死刑宣告されるも1月26日に助命を請いてガーネットの居場所を密告していた。このために当局は諦めることなくハインドリップ・ホールの家宅捜査を続け、結局、1月27日に、長期間に渡る聖職者の巣穴での生活で衰弱したガーネットはオールドコーンと共に当局に投降した。 ガーネットはまずウスターシャーのホルト城に連行された後、数日後にロンドンに移送され、最初はウェストミンスターのゲートハウス監獄に収監された。その翌日にはロンドン塔に移された。このロンドンへの移送の際には、長い潜伏生活で衰弱していたガーネットのために、国王の負担で良馬があてがわれ、またロンドン塔でも彼が「非常に素晴らしい部屋」と表現する部屋をあてがわれた。彼に対する尋問は23回にわたった可能性があるが、拷問台(ラック)などが使用される恐れに関しては「Minare ista pueris(脅しが通じるのは少年のみ)」と答え、そうした行為が無駄だと示した。結局、ガーネットの返答や明かす情報は事前によく考えられたものであり、また限定的であった。尋問者たちは様々な手を考え、内通者にゲートハウス監獄にいる甥への手紙を中継することを申出させてその手紙を検閲したり、壁にわざと穴を開けて会話が可能なオールドコーンの独房と隣合わせに入れて、その会話を盗み聞きするなどと処置をとった。これは結果として、自分が計画を知っていたと証言できるのは一人だけだ、という重要な情報をガーネットが漏らすことに繋がった。その後の拷問によって彼はテシモンドを通してケイツビーの計画を事前に知っていたことを認めた。 ガーネットに対する裁判は3月28日にギルド・ホール(英語版)で午前8時から午後7時まで行われ、起訴内容は大逆罪であった。コークの答弁ではガーネットが計画の立案者になっていた。彼は「ガーネットは天賦の才を与えられた者であり、博学で、数か国語に長けた専門家であり、本当に彼は同輩や高位のイエズス会士の前任者たちよりも優れている、悪魔のような反逆罪を企てたという点において。偽装の博士として王の破滅(Deposing)、王国の破滅(Disposing)、臣民の破滅(Daunting)と恫喝(Deterring)、そして破壊(Destruction)を企んだのである」と糾弾した。また、トレシャムの死に際に書かれたガーネット宛の謝罪の手紙が読み上げられ、それは1603年の「スペイン反逆事件」について書かれていたものにも関わらず、中身を知らないガーネットには1605年の出来事のものだと錯覚させた。さらに裁判では火薬陰謀事件だけではなく、彼自身の教義についても質問が行われた。トレシャムの遺品にあったガーネットの論文より、信仰のためには時に嘘を付くことも仕方がないとする「曖昧性の教義」は、「公然と、かつ大々的に嘘を放ち、偽証すること」とコークに糾弾され、さらにガーネットの立場を危なくした。テシモンドから聞いた内容は懺悔室の守秘義務の下で行われたために、当局に通報できなかったという弁明に対して、セシルはその時点で暗殺計画はまだ起きていないのだからできたはずだと指摘した。また、ケイツビーと無実の人々の死について直接会話した際にも同様にできたはずだと指摘したが、ガーネットはこの時点では質問と事件の関連性が理解できていなかったと弁明した。ノーザンプトン伯はラテン語で「quod non-prohibet cum potest, jubet(男ができることを禁じないのは、彼への命令と同じ)」と批判した。 ガーネットはすべての容疑に反論し、カトリックの立場を説明して自分はケイツビーを止めようとしたと弁明したが、それでも有罪となり、死刑宣告を受けた。
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