カメルーンからパリへの道程
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 08:14 UTC 版)
「フランシス・ガヌー」の記事における「カメルーンからパリへの道程」の解説
2012年4月にカメルーンを出発、死も覚悟していたガヌーは家族にどこへ行くのかを教えず、特に心配をかけたくなかった母親には家を出ていくことさえ告げなかった。アルジェリアでは闇市場で偽造パスポートを手に入れマリ人になりすまし、警官に賄賂として取られないようにするためお金はプラスチックに包んで飲み込み、目つきや服装などから私服警官を見分ける方法を学び、店に入る時は万が一の場合に備えて店の全ての出口を確認するなど細心の注意を払いながら、3,000マイルの道のりをブローカーの車両と徒歩で、ナイジェリア、ニジェール、アルジェリアを通り、水不足で死にかけ生きるか死ぬかの選択を迫られたサハラ砂漠越えでは動物の死骸が周囲に散乱する明らかに安全でない井戸の水を飲んで、カメルーンを離れてから3週間後にモロッコに到着した。 しかしモロッコとスペインを隔てるジブラルタル海峡の越境にさらに苦労する。国境警備隊や沿岸警備隊に6回拿捕され、そのたびに食料も水も与えられず西サハラの砂漠に放置されるか、刑務所に送り込まれた。モロッコの森の中に隠れ、プラスチックの廃材で雨風をしのぎ丸太の上で寝て、食べ物はゴミ箱を漁るという厳しい状況で暮らしていたガヌーは越境に失敗するたびに意思がゆらぎ諦めてカメルーンへの帰国を考ることもあったが、脳裏に浮かぶ夢を見すぎるなとガヌーを笑ったバティエ村の人々の顔が思いとどまらせた。 7回目の挑戦を前にガヌーはインターネットカフェで時間が切れる前に席を立つ客のプリペイド式パソコンを使って、インターネットで海峡の潮汐による潮の干満や波のうねり、風向きや月の満ち欠けを調べ、南から風が吹き、波の穏やかな、月の出ない、海峡を渡るのに適した夜を探した。 そして決行日を2013年3月中旬の日に決めると、8人の亡命仲間と50ドルのゴムボートを購入し、レーダーに検知されないようボートをアルミ箔で包んだ。計画を考案したガヌーは泳げなかったがキャプテンを任され、パドルを漕いで、スペインの対岸近くまで来ると、携帯電話でスペインの赤十字社に救助要請の連絡を入れた。そして必要の無くなったモロッコでなりすましていたセネガル出身の40歳の建設作業員の偽造パスポートを海に投げ捨てた。 スペインに着くと移住者収容センターに収容され、収容中には職員から亡命を諦めるよう嫌がらせも受けたが、2か月後に難民として認められ収容センターから解放されるとカメルーンを出発してから約14か月後となる2013年6月9日にフランスのパリへ到着した。 パリに到着したものの、住むところも金も無く、頼る知人もいなかったガヌーは、パリの路上でホームレスとして生活することになる。そんな状況であったが、ガヌーは飛び込みで交渉し、無料でトレーニングをやらせてもらえるボクシングジムを見つける。しかしジムの練習生から、ボクシングは閉ざされた世界で力のあるプロモーターやトレーナーが必要なので、格闘技で稼ぎたいのなら総合格闘技をやってみるべきだと勧められるが、ガヌーはボクシングをやるためにカメルーンを出てきたのであり、そもそも総合格闘技について全く何も知らなかったので、この時には総合格闘技を始める気持ちは起きなかった。 ボクシングのトレーニングは順調だったが週末は閉まってしまうジムであったため、週末もトレーニングを出来るジムを探していたところ、ある日、総合格闘技ジム「MMAファクトリー」を紹介され、ジムを尋ねると直ぐにジムのオーナーのフェルナンド・ロペスに素質を見込まれて、グローブなどの格闘技用具一式が詰まったバッグを渡され、その日から初心者クラスに参加して総合格闘技のトレーニングを始めた。この時、ガヌーはまだ路上で生活していたため、ロペスにバッグをジムに置かせて欲しいと頼むと、そこで初めて住むところがないと知ったロペスはガヌーにジムで寝泊まりすることを許可し、さらにガヌーのために住居を探した。 2013年11月30日に総合格闘技デビュー。ガヌーはまだボクシングに未練があったが、デビュー戦で総合格闘技が自身に向いてることを実感し、ファイトマネーを受け取り稼げることがわかると完全に総合格闘技へシフトした。
※この「カメルーンからパリへの道程」の解説は、「フランシス・ガヌー」の解説の一部です。
「カメルーンからパリへの道程」を含む「フランシス・ガヌー」の記事については、「フランシス・ガヌー」の概要を参照ください。
- カメルーンからパリへの道程のページへのリンク