エンジン製作の参考原理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 02:19 UTC 版)
「キュニョーの砲車」の記事における「エンジン製作の参考原理」の解説
蒸気の正圧(自然圧)を利用した蒸気機関(これを高圧機関といったが負圧に対する言葉であり現在用いられる高圧とは異なる) バルブを利用した2気筒利用の連続ピストン往復運動 1700年初頭には蒸気機関は据付エンジンとして炭鉱からの水のくみ上げ、重量機器の持ち上げ、などの用途に使われ始めていた。この時代は、ボイラーで発生した蒸気をピストンを使い動力として利用したが、ピストンの発生させる前後往復運動をそのまま利用するのみであり、回転運動に変換することはまだできていなかった。キュニョーの蒸気エンジンは1720年のヤーコプ・ロイポルトの高圧2気筒の機械の原理を参考にしている。キュニョーはパパン提唱のシリンダーとピストン、および『ロイポルトのエンジン』のアイデアを利用したものだった。 蒸気機関が定置型用途で(負の圧力を使用した)大気圧機関しか使われていなかった時代だったが、キュニョーの設計は正の圧力を利用する蒸気機関をつかったものだった。ピストン運動を回転運動に変換したのもワットに先立つもので、これにより前輪を駆動した。この試みは輸送の動力化の端緒であったが、その後の勢いはゆっくりしたものだった。 蒸気機関は17世紀末にドニ・パパンによって『ピストンを使った押し出し』が試作され、その後トーマス・セイヴァリが特許を取得し1712年にトーマス・ニューコメンにより『低圧を利用した吸引』(大気圧機関)が実用化され、鉱山などでの排水用ポンプの定置型動力として使われていた。いずれも、力が加わった後のピストンを元の位置に戻すためには重力など別の力を用いていた。1760年ごろになると複数の科学者が蒸気によって車を動かす試みをはじめた。キュニョーも軍事技術に携わったことから蒸気の使い方を学んでいた。ドイツの技師ヤーコプ・ロイポルト (Jacob Leupold: 1674-1727) が1724年に9分冊の著作『Theatrum machinarum generale』に影響を受けている。 1765年頃でも蒸気圧を利用した機械はまだ一方向への動きを生じさせることしかできなかった。シリンダーが一つの単気筒で、この筒の片側は開放されており、内部にあるピストンが反対側から蒸気圧で押されることで動きが生じるというものだった。強い力で押すことはできたが、一度押し切ったら機関の仕事は終了し、これを開始点まで引き戻すのは別の(往々にして人間の)仕事だった。さまざまな人がさまざまな工夫を試すなかで、最終的に勝ち残ったものは、冷水を注入することで蒸気の凝縮を生じさせ圧力が減衰する効果を利用し、これによりピストンが開始点まで引き戻されるようにしたものだった。周期的にこの操作を繰り返すことでピストンの連続的な往復運動が可能となった。この種の機械は、その往復運動が、炭鉱内の水を排出するのに利用された。 1769年に英国で特許を取得したワットでさえも、その時点ではトマス・ニューコメンの発明した蒸気機関の性能を改善するため復水器を追加したところであり、ワットのこの改良技術は飛躍的な性能向上に貢献し社会的な普及拡大の端緒となったが、機能的にはピストンを戻すために重力を利用していたことには従来と変わりがなかった。これは負圧を利用した大気圧式で、ロッキングビームによる往復運動であった。 このような時代に、キュニョーが利用したのは、セイヴァリ、ニューコメン、ワットの使用した『蒸気を冷やすことにより減圧を利用する』設計ではなく、ドニ・パパンの流れを汲む『蒸気が拡張する力を利用する』設計だった。蒸気は『ロイポルトのエンジン』のアイデアから、回転型のスライド式バルブを使いシリンダー内に送られた。これにより、2つの気筒を交互に動かし、一方の押す力を仕事に使うだけでなく、もう一方のピストン元の位置に戻す力としても使った。これにより機関自体での連続ピストン往復運動を可能とした。
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