ウォーナー伝説に対する反論
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「ラングドン・ウォーナー」の記事における「ウォーナー伝説に対する反論」の解説
一方、この説を否定する説が後年唱えられた。1975年に同志社大学のオーティス・ケーリが文芸春秋誌において「京都に原爆を落とすな-ウォーナー博士はほんとうに京都を救った恩人なのか」 を発表し、20年にわたる調査から、京都の原爆投下が避けられたのは陸軍長官ヘンリー・スティムソンによるものであるとした。1980年代には、立命館大学の鈴木良もスティムソン日記に「京都に原爆を落とすのは対ソ戦略から政治的効果にマイナスになるから(投下しない)」とあることを指摘し、ウォーナーと直接交流のあった五浦研究所初代所長の稲村退三もウォーナー自身が「リストは作成したが、爆撃を中止させるほどの権限はなかった」と述べていたことを記している。 1994年7月、歴史研究者の吉田守男は、学会誌『日本史研究』に『ウォーナー伝説批判』という論文を発表し、(同リストは)戦争中の文化財保護を目的とするよりは、休戦時に、「枢軸国の博物館やその指導者の私的コレクションのなかから被侵略国に引き渡されるべき損害に対する返済用の一等価値の美術品・歴史的公文書のリスト」であることを明らかにした。これは後に『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』(朝日文庫)、『京都に原爆を投下せよ』角川書店刊の改題)にまとめられた。吉田の研究によれば、ウォーナーの文化財保護の話はGHQ民間情報教育局の情報工作による宣伝で、事実と異なるとする。吉田によれば、ウォーナーリストは、単なる文化財保護の目的ではなく、占領地域での文化財を保護し、(ナチスなどが)略奪した文化財を返還させ、弁償させるために作成したリストの日本版であった。リストに記載された文化財で名古屋城、岡山城など空襲によって焼失したものは多数存在する。また、実際には京都でも東山区馬町(1945年1月16日)、右京区太秦(4月16日)、右京区春日(3月19日)、上京区西陣(6月26日)、そして京都御所(5月11日)など計20回以上の空襲に遭っており、原爆の投下候補地にもなっていた。京都が結果的に大規模な空襲を免れたのは、原爆の投下目標として温存されたためである。奈良も大規模な空襲こそなかったが、小規模な空襲や機銃掃射は多々あった。 2007年には毎日新聞が、オーティス・ケーリや五百旗頭真の調査により、京都を原爆投下候補地から外したのは実は陸軍長官ヘンリー・スティムソンであり、戦前、京都を訪れ、日本文化を愛していたスティムソンの配慮に依るものだったという説を報道。ケーリ・五百旗頭調査を2010年に紹介した比較文化史家で東京大学名誉教授の平川祐弘は、ウォーナーの他にも日本の文化財保護の立役者と言われている人物が複数いるがどれも根拠薄弱であると述べ、「外国人に感謝するのもいいが、するなら根拠のある感謝をしてもらいたい」「ウォーナー伝説は日本では美談扱いだが、米国では日本人の感傷的な歪(ゆが)んだ外国認識の実例として研究対象にされた」と痛烈に批判している。 なお、歴史家で鎌倉世界遺産登録推進協議会広報部会長の内海恒雄は、ウォーナーリストの解説に「(日本の文化財の)破壊は大損害であり、戦禍を免れたら世界の文明国の利益は計りしれない」と書き添えられていたことを指摘している。
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