ウォーナー博士と鎌倉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 23:43 UTC 版)
詳細は「ラングドン・ウォーナー」を参照 鎌倉地域には鎌倉郡深沢村の横須賀海軍工廠深沢分工場や富士飛行機などの軍需工場があり、前者は魚雷、機雷、爆雷、操舵機、探信儀、機銃弾倉などの製造、後者は海軍機の製造に携わっていた。また、戦局の悪化に伴い本土決戦が差し迫ると連合国軍の相模湾上陸に備え近隣の山々には防御戦闘のための陣地が構築された。こうした軍需施設や軍事施設を有する鎌倉地域は本格的空襲を受けることがなかったが、その理由についてアメリカの美術史家・ラングドン・ウォーナーが政府を説得したことにより、京都市や奈良市などと共に空襲を免れたという説が真しやかに伝わっている。 この説は美術評論家の矢代幸雄が1945年11月20日付けの『朝日新聞』において公表したことを契機に広まったもので、鎌倉駅の西口にあるウォーナーの顕彰碑には「文化は戦争に優先する」というウォーナーの功績およびアメリカ軍の戦争政策を賞賛する文言が刻まれ、『鎌倉市史』には「戦争地域美術および記念物擁護委員のウォーナーが爆撃阻止リストに鎌倉を加えたことが大きく作用した」と記されている。 一方、同志社大学教授のオーティス・ケーリが1975年に「爆撃禁止命令は陸軍長官・ヘンリー・スティムソンの指示によるもの」とする調査結果を発表、専門家の吉田守男が2002年に出版した自著の中で「日本の文化施設・文化財を記した『ウォーナー・リスト』は、必ずしも戦災から守るために作成されたのではない」と様々な要点を示して否定するなど、矢代の公表した説には疑問が呈されている。なお、ウォーナーと交流のあった茨城大学五浦美術文化研究所元所長の稲村退三によれば彼自身は生前「文化財リストを作成したのは自分達だが、爆撃を中止させるほどの権限はなかった」と発言するなど関与を否定していた、としている。
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