ウォリック伯の反乱
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エドワード4世擁立の立役者となったウォリック伯は、イングランド最大の土地所有者になっていた。妻の財産によってすでに傑出した大貴族になっていたが、その上に父の領地を相続し、さらには没収されたランカスター派貴族の領地をも与えられていた。彼には五港長官職とカレー守備隊司令職が与えられた。ウォリック伯は親仏派の立場をとり、エドワード4世とフランス王族との縁組をルイ11世と交渉していた。しかし、エドワード4世はランカスター派騎士の未亡人のエリザベス・ウッドヴィルと1464年に秘密結婚をしていた。後にエドワード4世はこれを「くつがえせない事柄」(fait accompli)として公表し、縁談を進めていたウォリック伯の面目を失わせることになった。 エドワード4世はエリザベス王妃の父リチャード・ウッドヴィルをリヴァーズ伯に、弟のアンソニーをスケールズ卿に、そして連れ子のトマス・グレイ(英語版)をドーセット侯となし、親族の多くを貴族と結婚させ、その他の者たちも爵位や官職を授与した。エドワード4世はウッドヴィル一族の重用に留まらず、側近たちにも爵位を与え、さらにはネヴィル一族の宿敵であるパーシー家の遺児ヘンリー・パーシーにノーサンバランド伯爵位を返還させ、独自の党派形成を策した。 エドワード4世がフランス国王との同盟ではなく、ブルゴーニュ公シャルル(突進公)に王妹マーガレットを嫁がせて同盟を結んだことや、弟のクラレンス公、グロスター公とウォリック伯の娘たちとの縁組に乗り気でなかったこともウォリック伯を失望させる要因となっていた。エドワード4世もウォリック伯の弟のヨーク大司教(英語版)ジョージ(英語版)を尚書部長官職から解任して、ネヴィル一族排除の動きを見せる。 ウォリック伯は任地のカレーから国王の不正を糾弾するとともに、エドワード4世の意に反してウォリック伯の娘イザベルと結婚した王弟クラレンス公ジョージと盟約を結んだ。1469年4月、ウォリック伯の扇動によって北部地方でレデスデールのロビン(英語版)の反乱が起き、エドワード4世は鎮圧に赴いた。ウォリック伯はカレーの軍勢を率いてケントに上陸するが、エドワード4世は7月6日のエッジコート・ムーアの戦いで反乱軍に敗れていた。エドワード4世はバッキンガムシャーのオルニーで捕らえられ、ヨークシャーのミドルハム城に幽閉された。ウォリック伯は王妃の父リヴァーズ伯と弟ジョン(英語版)を処刑し、エドワード4世の側近たちも粛清したが、エドワード4世自身の非合法性を唱えてクラレンス公擁立する動きをすぐには起こさなかった。 国内は大混乱に陥り、貴族たちは再び私兵を用いた抗争を始め、ランカスター派は反乱を扇動した。ウォリック伯の権力掌握を支持する貴族はわずかだった。エドワード4世はヨーク大司教ジョージに伴われてロンドンに入り、ウォリック伯と表面的な和解をなした。 1470年3月、リンカンシャーでさらなる反乱が起った。エドワード4世はウォリック伯と疎遠な者を選んで国王軍を召集し、ルーズコート・フィールドの戦いで反乱軍を打ち破った。捕虜になった首謀者はウォリック伯とクラレンス公の教唆による反乱であったと証言した。彼らは反逆者と宣告され、フランスへの逃亡を余儀なくされた。
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ウォリック伯の反乱
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「エドワード4世 (イングランド王)」の記事における「ウォリック伯の反乱」の解説
1461年6月28日、19歳のエドワード4世はウェストミンスター寺院で戴冠式を挙行した。彼の王位は親族ネヴィル家に負うところが多く、当面の間は、彼らに指導されることに不満を抱かなかった。エドワード4世はまだ若く、遊興を好む一方で頻繁に出征しており、1462年から1463年の北部でのランカスター派残党との戦いに参加した。 もっとも、最終的な勝利を確定した1464年5月14日のヘクサムの戦いには不在であり、この時期にエドワード4世はリヴァーズ卿リチャード・ウッドヴィルの娘であり、ランカスター派騎士ジョン・グレイ(英語版)(1461年死去)の未亡人であるエリザベス・ウッドヴィルと秘密結婚を行っている。この身分違いの結婚は貴族たちからの不評を買うことになる。この結婚は9月29日のミカエル祭(英語版)に公表され、フランス王ルイ11世の義妹ボナ・ディ・サヴォイアとの縁組交渉を進めていたウォリック伯の面目を失わせる結果となった。 エドワード4世は新たな親族となったウッドヴィル一族を寵臣となし、舅はリヴァーズ伯に叙爵されて侍従武官長に任命され、王妃エリザベスの弟と連れ子は貴族に叙爵され、妹たちは貴族と結婚させた。外交政策ではエドワード4世はウォリック伯の親仏政策を覆し、ブルゴーニュ公との同盟を望んだ。この対立は数年間は破綻には至らなかったが、ウッドヴィル家に対する世間の不満は高まり、ウォリック伯はエドワード4世の意に反して彼の娘イザベルと結婚した王弟クラレンス公ジョージとの盟約を結ぶと1469年に反乱を起こした。エッジコート・ムーアの戦いで国王軍は敗北、不意をつかれて捕らえられたエドワード4世はウォリック城に幽閉され、舅は斬首された。 半年間エドワード4世はウォリック伯の監視下に置かれたが、リンカンシャーでの反乱の機会に自らの軍を集めることに成功した。ルーズコート・フィールドの戦いで捕えられた反乱の指導者ロバート・ウェリス(英語版)はウォリック伯の関与を告白し、ウォリック伯とクラレンス公はフランスへの逃亡を余儀なくされた。 エドワード4世はこれで自らの安全は確保されたと考えたが、ウォリック伯とクラレンス公は王妃マーガレットを中心とする亡命ランカスター派と同盟を結んでいた。彼らの反撃を受けたエドワード4世はネーデルラントへの逃亡を余儀なくされた(1470年9月)。ウォリック伯はロンドン塔に幽閉されていたヘンリー6世を復辟させた。エドワード4世の妹マーガレットの夫ブルゴーニュ公シャルル(豪胆公)は当初は義弟への援助を拒否していたが、最終的には軍資金を提供した。 1471年3月にエドワード4世と末弟のグロスター公リチャード(後のリチャード3世)は小軍勢を率いてヨークシャー海岸のレーヴェンスパー(英語版)に上陸した。そこから南下して4月11日に歓迎を受けつつロンドンに入り、ヘンリー6世を再度ロンドン塔へ投獄して復位を果たした。3日後の14日にバーネットの戦いでウォリック伯を敗死させ、5月4日のテュークスベリーの戦いでランカスター軍にも勝利した。捕らえられたエドワード王子は処刑され、同じく捕虜になったマーガレット王妃は後にフランスへ送還され死去、ヘンリー6世もロンドン塔で殺害された。これにより、ランカスター家の王位継承権者はほぼ根絶やしにされ、エドワード4世の王位は安泰となった。
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