ウォリック伯の反乱とは? わかりやすく解説

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ウォリック伯の反乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 01:06 UTC 版)

薔薇戦争」の記事における「ウォリック伯の反乱」の解説

エドワード4世擁立立役者となったウォリック伯は、イングランド最大土地所有者になっていた。妻の財産によってすでに傑出した貴族になっていたが、その上に父の領地相続しさらには没収されランカスター派貴族領地をも与えられていた。彼に五港長官職とカレー守備隊司令職が与えられた。ウォリック伯親仏派立場をとり、エドワード4世フランス王族との縁組ルイ11世交渉していた。しかし、エドワード4世ランカスター派騎士未亡人エリザベス・ウッドヴィル1464年秘密結婚をしていた。後にエドワード4世はこれを「くつがえせない事柄」(fait accompli)として公表し縁談進めていたウォリック伯面目を失わせることになったエドワード4世エリザベス王妃の父リチャード・ウッドヴィルリヴァーズ伯に、弟のアンソニースケールズ卿に、そして連れ子トマス・グレイ英語版)をドーセット侯となし、親族多く貴族結婚させ、その他の者たちも爵位官職授与したエドワード4世はウッドヴィル一族重用留まらず側近たちにも爵位与えさらにはネヴィル一族宿敵であるパーシー家遺児ヘンリー・パーシーノーサンバランド伯爵位を返還させ、独自の党派形成策したエドワード4世フランス国王との同盟ではなくブルゴーニュ公シャルル突進公)に王妹マーガレットを嫁がせて同盟結んだことや、弟のクラレンス公グロスター公ウォリック伯娘たちとの縁組乗り気でなかったこともウォリック伯失望させる要因となっていた。エドワード4世ウォリック伯の弟のヨーク大司教英語版ジョージ英語版)を尚書部長官職から解任して、ネヴィル一族排除動き見せる。 ウォリック伯任地カレーから国王の不正を糾弾するとともにエドワード4世意に反してウォリック伯の娘イザベル結婚した王弟クラレンス公ジョージ盟約結んだ1469年4月ウォリック伯扇動によって北部地方でレデスデールのロビン英語版)の反乱起きエドワード4世鎮圧赴いたウォリック伯カレー軍勢率いてケント上陸するが、エドワード4世7月6日エッジコート・ムーアの戦い反乱軍敗れていた。エドワード4世バッキンガムシャーのオルニーで捕らえられヨークシャーミドルハム城幽閉された。ウォリック伯王妃の父リヴァーズ伯と弟ジョン英語版)を処刑しエドワード4世側近たちも粛清したが、エドワード4世自身非合法性を唱えてクラレンス公擁立する動きをすぐには起こさなかった。 国内大混乱に陥り、貴族たちは再び私兵用いた抗争始めランカスター派反乱扇動したウォリック伯権力掌握支持する貴族わずかだったエドワード4世ヨーク大司教ジョージ伴われロンドン入りウォリック伯表面的な和解をなした。 1470年3月リンカンシャーさらなる反乱起ったエドワード4世ウォリック伯疎遠な者を選んで国王軍召集しルーズコート・フィールドの戦い反乱軍打ち破った捕虜になった首謀者ウォリック伯クラレンス公教唆による反乱であった証言した。彼らは反逆者宣告されフランスへ逃亡余儀なくされた。

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ウォリック伯の反乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 08:29 UTC 版)

エドワード4世 (イングランド王)」の記事における「ウォリック伯の反乱」の解説

1461年6月28日19歳エドワード4世ウェストミンスター寺院戴冠式挙行した。彼の王位親族ネヴィル家に負うところが多く当面の間は、彼らに指導されることに不満を抱かなかった。エドワード4世はまだ若く遊興を好む一方で頻繁に出征しており、1462年から1463年北部でのランカスター派残党との戦い参加した。 もっとも、最終的な勝利を確定した1464年5月14日ヘクサムの戦いには不在であり、この時期エドワード4世リヴァーズリチャード・ウッドヴィルの娘であり、ランカスター派騎士ジョン・グレイ英語版)(1461年死去)の未亡人であるエリザベス・ウッドヴィル秘密結婚行っている。この身分違い結婚貴族たちから不評を買うことになる。この結婚9月29日ミカエル祭英語版)に公表されフランス王ルイ11世義妹ボナ・ディ・サヴォイアとの縁組交渉進めていたウォリック伯面目を失わせる結果となったエドワード4世新たな親族となったウッドヴィル一族寵臣となし、舅はリヴァーズ伯に叙爵されて侍従武官長任命され王妃エリザベスの弟と連れ子貴族叙爵され、妹たち貴族結婚させた。外交政策ではエドワード4世ウォリック伯親仏政策覆しブルゴーニュ公との同盟望んだ。この対立数年間は破綻には至らなかったが、ウッドヴィル家に対す世間の不満は高まりウォリック伯エドワード4世意に反して彼のイザベル結婚した王弟クラレンス公ジョージとの盟約を結ぶと1469年反乱起こしたエッジコート・ムーアの戦い国王軍敗北、不意をつかれて捕らえられエドワード4世ウォリック城幽閉され、舅は斬首された。 半年エドワード4世ウォリック伯監視下に置かれたが、リンカンシャーでの反乱機会に自らの軍を集めることに成功したルーズコート・フィールドの戦いで捕えられた反乱指導者ロバート・ウェリス(英語版)はウォリック伯関与告白しウォリック伯クラレンス公フランスへ逃亡余儀なくされた。 エドワード4世はこれで自らの安全は確保されたと考えたが、ウォリック伯クラレンス公王妃マーガレット中心とする亡命ランカスター派同盟結んでいた。彼らの反撃受けたエドワード4世ネーデルラントへの逃亡余儀なくされた(1470年9月)。ウォリック伯ロンドン塔幽閉されていたヘンリー6世復辟させた。エドワード4世の妹マーガレットの夫ブルゴーニュ公シャルル豪胆公)は当初義弟への援助拒否していたが、最終的に軍資金提供した1471年3月エドワード4世末弟グロスター公リチャード(後のリチャード3世)は小軍勢率いてヨークシャー海岸のレーヴェンスパー(英語版)に上陸した。そこから南下して4月11日歓迎を受けつつロンドン入りヘンリー6世再度ロンドン塔投獄し復位果たした3日後の14日バーネットの戦いウォリック伯敗死させ、5月4日テュークスベリーの戦いランカスター軍にも勝利した捕らえられエドワード王子処刑され同じく捕虜になったマーガレット王妃は後にフランスへ送還され死去ヘンリー6世ロンドン塔殺害された。これにより、ランカスター家王位継承権者はほぼ根絶やしにされ、エドワード4世王位安泰となった

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