ウォリック伯の陰謀に加担
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「ジョン・ド・ヴィアー (第13代オックスフォード伯)」の記事における「ウォリック伯の陰謀に加担」の解説
ヨーク朝の国王エドワード4世の治世初期である1462年、国王への陰謀を企てたとして父と兄オーブリーが処刑されたが、エドワード4世はランカスター派との和解策を採っていたので、オックスフォード伯は父の地所と称号を継承する事を許された。彼は1465年のエドワードの王妃エリザベス・ウッドヴィル戴冠の際にも、オックスフォード伯家の代々の仕事である式部長官(宮内庁長官)として、戴冠式を執り行なう事を許され、同年にはマーガレット・ネヴィル(ソールズベリー伯リチャード・ネヴィルとアリス・モンターギュ(en)の娘でウォリック伯リチャード・ネヴィルの妹)と結婚した。また、ノーフォークにおける勢力拡大のためこの地に根を張るジェントリのパストン家を召し抱え当主ジョン・パストン(英語版)を庇護、彼らが抱えていたジョン・ファストルフの遺産相続争いの仲裁に手を貸し、1467年に一時相続人の間で合意を取り付けている。 1468年、オックスフォード伯はエドワード4世に対する反逆の陰謀で捕えられ、しばらくロンドン塔で過ごしたが、1469年の初めに釈放された。処刑を免れたのは、恐らく義兄であるウォリック伯の努力によるものだと思われる。釈放後はウォリック伯に接近し1469年のウォリック伯の陰謀に極秘裏に関与、7月にウォリック伯がエドワード4世に反旗を翻してフランスへ渡り、カレーで娘イザベルをエドワード4世の弟クラレンス公ジョージと結婚させると挙式に出席、ウォリック伯はエッジコート・ムーアの戦いでエドワード4世を捕らえたが、政治的判断で10月にエドワード4世が釈放されウォリック伯と和睦すると、オックスフォード伯も国王を迎え入れた。その間、パストン家は政治空白状態の隙を突かれファストルフの遺産であるカイスター城(英語版)をノーフォーク公ジョン・モウブレーの軍勢に襲われ、オックスフォード伯とクラレンス公の仲介も空しく9月にカイスター城を奪われている。 1470年にウォリック伯が再度陰謀を企むとまたもや彼に近付き、陰謀がエドワード4世に露見して4月にフランスへ亡命したウォリック伯・クラレンス公の後を追い逃亡、ランカスター派を率いていたフランスのマーガレット・オブ・アンジューの宮廷に逃げた。与えられている「ランカスター派の指揮官」としての地位と、同じくウォリック伯の義弟として、オックスフォード伯はウォリック伯のランカスター派への寝返りを交渉、9月に艦隊を率いてイングランドへ戻ったウォリック伯に同行、10月にエドワード4世がブルゴーニュへ亡命、ウォリック伯の活躍でヘンリー6世が復位するとイングランド武官長に任命された。それに伴い、ノーフォーク公との争いで劣勢だったパストンもオックスフォード伯の後ろ盾で有利になり、12月にカイスター城をノーフォーク公から返還された。
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