ウォリック伯爵位襲爵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 06:02 UTC 版)
「リチャード・ネヴィル (第16代ウォリック伯)」の記事における「ウォリック伯爵位襲爵」の解説
ネヴィル家はスコットランド人との戦争によって14世紀に台頭したダラム地方の一族である。1397年にウォリック伯の祖父ラルフ・ネヴィルはウェストモーランド伯に叙された。ラルフの子で後のウォリック伯の父リチャード・ネヴィルは2度目の結婚によって生まれた年少の息子であり、伯爵領の後継者ではなかった。しかし彼は第4代ソールズベリー伯トマス・モンタキュートの1人娘で女後継人である第5代ソールズベリー女伯アリスとの結婚によって妻の権利で第5代ソールズベリー伯位を手にした。 このソールズベリー伯夫妻の息子で、父と同名である後のウォリック伯リチャード・ネヴィルは1428年11月22日に生まれたが、幼少期についてはほとんど分かっていない。リチャードは6歳の時に第13代ウォリック伯リチャード・ド・ビーチャムとその妻第5代バーガーシュ女男爵(英語版)イザベル・ル・ディスペンサー(英語版)の娘アン・ビーチャム(英語版)と婚約した。これによってリチャードはソールズベリー伯領だけでなく、モンターギュ家、ビーチャム家とディスペンサー家の遺産のかなりの部分を継承する立場となった。 しかし彼はさらに幸運に恵まれる。1446年、13代ウォリック伯の息子でリチャードの姉と結婚していた初代ウォリック公(14代ウォリック伯)ヘンリー・ド・ビーチャムが亡くなった。そのヘンリーの娘であるアン(英語版)も1449年に亡くなったため、リチャードは妻の権利によりウォリック伯位をも得ることになったのである。 だが、リチャードの領地継承には疑問がさし挟まれた。継承に関する長引く争いは、特に第2代サマセット公エドムンド・ボーフォートとの間に起こった。サマセット公はリチャード・ド・ビーチャムが初めの結婚によってもうけた娘と結婚していた(リチャード・ド・ビーチャムはエリザベス・バークレーと結婚し、その間には3人の娘が生まれていた。サマセット公はそのうちの1人、エレノアと結婚していた)。紛争はウォリック伯位に対してではなく、領地に対するものであった。ヘンリーの腹違いの姉たちは継承権から排除されていたためである。 1445年までにリチャードは騎士に叙任されている。おそらくはその年4月22日のマーガレット王妃の戴冠式においてである。1449年までにはヘンリー6世に仕え始めているようである。彼は父とともに北方での軍役に従事し、1448年から1449年までのスコットランドとの戦争に参加した。1452年にヨーク公リチャードが国王に対し反旗を翻し不首尾に終わった時には、ウォリックと父は国王の側に馳せ参じている。
※この「ウォリック伯爵位襲爵」の解説は、「リチャード・ネヴィル (第16代ウォリック伯)」の解説の一部です。
「ウォリック伯爵位襲爵」を含む「リチャード・ネヴィル (第16代ウォリック伯)」の記事については、「リチャード・ネヴィル (第16代ウォリック伯)」の概要を参照ください。
- ウォリック伯爵位襲爵のページへのリンク