アメリカ政府の政策変更
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/01 15:12 UTC 版)
「スプートニク・ショック」の記事における「アメリカ政府の政策変更」の解説
スプートニク・ショックはアメリカによる政策提案を、大きなものから小さなものまで連鎖的に引き出した。そのほとんどは国防総省が発議したものだった。 スプートニク1号成功からわずか2日で、スプートニクの軌道の計算が開始された(イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校宇宙物理学科とデジタル・コンピュータ・ラボのドナルド・ギリーズが共同で、ILLIAC Iコンピュータを使用して行ったものである)。 アメリカは宇宙開発競争に突入した。1958年のアメリカ航空宇宙局(NASA)設立とマーキュリー計画の開始が含まれる。 新世代の技術者を養成するため、1958年の国家防衛教育法など様々な教育計画が開始された。この中で今日もっとも記憶されている、また注目すべきものは「新数学(New Math)」というカリキュラムである。初等教育における算数教育を根本から改革し集合論や十進法以外の位取りなど抽象的な数学的構造を早い年齢から導入してアメリカ人の数学能力向上を目指したものの教育現場に混乱を起こした。 科学研究に対する支援が劇的に増加した。1959年、連邦議会は米国科学財団に対し前年度より1億ドルも高い1億3,400万ドルの歳出割当承認を行った。1968年までに、米国科学財団の年間予算は約5億ドルに達した。 国防総省は潜水艦発射弾道ミサイル・ポラリス計画を開始した。 プロジェクトマネジメントの手法が研究され精査の対象となり、より現代的なプロジェクトマネジメントや標準計画モデルが確立された。例えば、ポラリスミサイル開発のために複雑なプロジェクトを相互に関連した簡単な作業にまで分解し、その前後関係などの関連性を調べた上で作業の見積や管理を行う手法であるPERTが生み出された。 ジョン・F・ケネディ大統領は1960年の選挙運動で米ソの「ミサイル・ギャップ」を埋めることに触れ、1,000基のミニットマン・ミサイルをはじめ当時ソ連が保有していた以上の大陸間弾道ミサイルを配備することを決めた。また1961年5月25日、両院合同会議の席上で10年以内に人間を月に送ると声明し、アポロ計画の目標を月面着陸に変更させた。 チューブ・アロイズで核開発に協力したにもかかわらず、アメリカから核独占のため核情報へのアクセスを遮断され、憤激したイギリスが初の水爆実験(グラップル作戦(英語版)、1957年11月8日)に成功したのを受け、アメリカ・イギリス相互防衛協定を翌1958年7月3日に調印してイギリスの核情報へのアクセスを認めた。 またこの事件によってアメリカ国民の科学に対する興味・関心が高まり、一般人にも解りやすい内容の科学解説書のニーズが急増した。この恩恵を最も受けた人物の1人が、当時ボストン大学を辞して専業作家となったSF作家アイザック・アシモフであり、以後の著作がSFから科学解説などのノンフィクション中心へと移行する契機となった。
※この「アメリカ政府の政策変更」の解説は、「スプートニク・ショック」の解説の一部です。
「アメリカ政府の政策変更」を含む「スプートニク・ショック」の記事については、「スプートニク・ショック」の概要を参照ください。
- アメリカ政府の政策変更のページへのリンク