アメリカのディスコ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 22:13 UTC 版)
生バンドの代わりにレコードを掛ける「ディスコ」(もしくはクラブという形式)が本格的な発展を遂げたのは、1960年代以降のアメリカのニューヨークのゲイ・シーンである。客層はゲイの黒人・ヒスパニック系などのマイノリティが主流であり、掛けられる音楽はファンクやソウルミュージックや特にフィラデルフィア・ソウルと呼ばれる滑らかなリズム・アンド・ブルースや、それらをベースにした音楽であった。ディスコはゲイ男性のための発展場としての役割と、アンダーグラウンドな黒人音楽の発展の場としての二つの面を持っていた。こうしたディスコとして有名なものに「パラダイス・ガレージ」「セイント」「フラミンゴ」「ギャラリー」などが挙げられる。いずれもゲイの男性を対象としたメンバーズ・オンリーのディスコであり、女性や非メンバーはメンバーのゲストとして入場できた。これらはニューヨークでも最先端の流行発信地で、ファッショナブルで流行に敏感なゲイが集まる場所であった。この中でもっとも有名であり、後世に影響を与えたのは「パラダイス・ガレージ」とそのメインDJであるラリー・レヴァンであった。1984年には「パラダイス・ガレージ」と人気を二分した「セイント」で、日本人として初めて中村直がレジデントとして迎えられた。 こうした背景から、アメリカでは、ディスコ音楽は黒人とゲイのためのものと見られる傾向にあった。当時人気のあったゲイ・ディスコ・ミュージシャンには、シルヴェスターやヴィレッジ・ピープルがいた。また、ドナ・サマー、ダイアナ・ロス、グロリア・ゲイナー、メルバ・ムーア、グレース・ジョーンズ、ロリータ・ハロウェイらは、ゲイを中心とした聴衆から「ディスコ・クイーン」の地位に祭り上げられた。しかし、粗製濫造された質の低いレコードや、飽きられたことによる流行の終焉、またエイズの流行によりゲイ音楽シーンが被害を受けたことなどにより、ゲイディスコという形態は次第に姿を消す。ディスコブームの終焉の後には、ハウスを中心としたクラブ音楽へと変わっていった。 アメリカでは、1970年代半ばから世界的なディスコ・ブームとなり、ニューヨークの「スタジオ54」や「ニューヨーク・ニューヨーク」などの巨大ディスコが人気となった。ディスコ音楽がラジオでさかんにオンエアされるようになると一般リスナーにも聞かれるようになる。1970年代にはアメリカのテレビ番組『ソウル・トレイン (Soul Train)』が人気となった。1977年のジョン・トラボルタ主演の映画「サタデー・ナイト・フィーバー」の影響で、ディスコ・ブームが先進国を中心に世界的に発生し、ディスコティックが増加した。ディスコには黒人やゲイだけでなく一般人が押し寄せるようになり、1975年から1979年ごろにはディスコ音楽がヒットチャートの上位に進出するようになった。 1970年代には、ただヒット曲を流すのではなく、DJが自らの個性を発揮した選曲で独特の世界を作り上げて客を踊らせるスタイル、2枚のレコードをミックスして継ぎ目なくレコードを演奏するスタイル、既にある曲をリミックスしてダンス向きにする手法、クラブで掛けるためだけに製造される12インチのシングル盤といった形式などが、ラリー・レヴァンやエンジニアのウォルター・ギボンズらによって確立された。やがてラリー・レヴァンやフランソワ・ケヴォーキアンなどの有名ディスコDJたちはレコードを発掘するにとどまらず、自ら音楽プロデューサーとしてダンスに特化したレコードを多数リリースしたり、リミックスを手がけるようになる。ダンスフロアとダンサーの心理やツボを知り尽くした彼らは、それまでの音楽プロデューサーが思いもよらなかったような様々なテクニックやスタイルを導入した。こうしたダンス・レコードをリリースしてディスコ文化を支えたレコードレーベルとしては、サルソウル・オーケストラ、ファースト・チョイスなどが在籍した「サルソウル・レコード」、ドナ・サマーらが在籍した「カサブランカ・レコード」などが挙げられる。 アメリカから日本へ輸入されたディスコ文化は、本来の黒人音楽の要素は非常に薄まり、白人大衆向けに普及した音楽であった。
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