流行の終焉
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「旗本奴」の流行とその固有文化や求心力は、幕府による厳正なる取締りにより終焉した。それぞれの組の頭目以下一党の幕府による処刑である。 大鳥居一派300人を処刑した1612年8月のほか、1655年(明暦元年)に実施された明暦の博徒刈り込み、幕府の火付改加役(後の火付盗賊改)の肩書きをもつ中山勘解由(中山直守)が1686年10月(貞享3年9月)に実施した200人あまりの捕縛等、幕府は旗本奴、町奴を何度も弾圧している。1645年12月25日(正保2年11月8日)、麹町の真法寺で杉浦正友に預けられていた山中源左衛門が切腹にて死去。1664年3月14日(寛文4年2月17日)、「吉屋組」の頭目、三浦小次郎義也(三浦小次郎)が切腹となったとされる。同年4月23日(寛文4年3月27日)、水野十郎左衛門が切腹、家は断絶。1686年(貞享3年)に中山勘解由により旗本奴・町奴の一掃が行われ、「唐犬組」の唐犬権兵衛は獄門となったとされる。同年の取締りでは、「鍾馗一家」の鍾馗半兵衛らと派手な抗争を起こした「大小神祇組」の志賀仁右衛門も捕縛され、絞刑に処された。 唐犬権兵衛は町人であるために獄門、その他の武士階級の者は概ね切腹と、科せられた刑には身分による差があった。大名であった加賀爪直澄は徳川家光の寵臣の一人であったために処分はされなかったが、養子に家督相続の際、若き日の直澄の不備が原因となり領地を失い、改易および配流処分となっている。 このように重罪に問われることが明確となったことで、以降武士階級による六方組のような大規模な傾奇者・博徒の集団は現れなくなった。
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流行の終焉
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「プロポーショナル・ノーテーション」の記事における「流行の終焉」の解説
新しい複雑性出現以後は、「この記譜法は、結局演奏家のリズム能力に全面的に依存する為、新しい持続を得ることは不可能である」とされ、1980年代以降はこの記譜法が徐々に敬遠されてゆく。しかし、この記譜法がもたらした恩恵は大きく、演奏家はどうやってリズムを知覚するのかを解く大きな一歩となった。現在も、リズム指定がほぼ重要でないパートは、この記譜法で代用されることが多い。 流行は終わっても、定量記譜法では書けないリズムが記譜されるコンロン・ナンカロウのような例もある。
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