山中源左衛門とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 山中源左衛門の意味・解説 

山中源左衛門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/08/02 06:27 UTC 版)

山中 源左衛門
時代 江戸時代前期
生誕 生年月日不詳
死没 1645年12月25日正保2年11月8日
改名 重之
幕府 江戸幕府 大御番旗本
主君 徳川秀忠

山中 源左衛門(やまなか げんざえもん、生年不詳 - 1645年12月25日)は、江戸時代前期17世紀)に実在した日本の武士旗本である[1][2]。本名重之[3]

目次

人物・来歴

生年月日・生地ともに不詳であるが[1][2]、『寛政重修諸家譜』(1812年)にも『徳川実紀』(1849年)にもその名が記述されている、実在の人物である[3]

『寛政重修諸家譜』によれば、1622年(元和8年)に初めて、第2代征夷大将軍徳川秀忠に拝謁し、200俵を賜る大御番旗本となったという[3]。その後、小普請奉行に任命される[3]

嫌がらせが好きな性分で、人の嫌がることをしては悦に入ったという[2]大田南畝によれば、500石の大御番旗本から、旗本奴に転じた人物である[1][2]。前歯が欠けており、銀製の義歯をしていたとされる[4]

1645年12月(正保2年11月)、病気と称して任務を果たさず、江戸市中で無頼の行為を行っていることが発覚した[3]。杉浦内蔵允正友(杉浦正友)に預けられたが、切腹を申し付けられ、同年同月25日(同年同月8日)、麹町の真法寺で切腹によって死去した[1][2][3]。辞世の句は「わんざくれ 踏んぞるべいか 今日ばかり 翌日は烏が 掻ッ咬じるべい」というもので、べらんめえ調の「六方詞」で詠まれた[1][2]。のちに塚原渋柿園が描いた『山中源左衛門』では、享年21(満20歳)とされているが[5]、『寛政重修諸家譜』の記述からすれば、それよりも年長であるとみられる[3]

脚注

[ヘルプ]
  1. ^ a b c d e 山中源左衛門、朝日日本歴史人物事典、コトバンク、2012年8月2日閲覧。
  2. ^ a b c d e f 山中源左衛門、デジタル版 日本人名大辞典+Plus、コトバンク、2012年8月2日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g 三瓶、p.14.
  4. ^ 六方男達、8020推進財団、2012年8月2日閲覧。
  5. ^ 渋柿集、p.757.

参考文献

  • 『山中源左衛門』、塚原渋柿園春陽堂、1894年1月
  • 『山中源左衛門』、『渋柿集 下』所収、塚原渋柿園、春陽堂、1912年、p.551-757.
  • 『明治歴史小説論叢』、三瓶達司、新典社、1987年1月 ISBN 4787940198

関連項目

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「山中源左衛門」の関連用語

山中源左衛門のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



山中源左衛門のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの山中源左衛門 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS