アウストロ・ダイムラー時代
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「フェルディナント・ポルシェ」の記事における「アウストロ・ダイムラー時代」の解説
自分の研究開発が進まないのはローナーの会社規模が小さいからだと感じ、1906年にアウストロ・ダイムラーに技術部長として移籍し、初めて白紙からスポーツカーを設計する機会を得て1909年4気筒SOHC5,700ccエンジンを搭載した「28/30HP マヤ」を設計、プリンツ・ハインリヒ・トライアルで1から3位を占めた。この時1位の車両を運転していたのはポルシェ自身であった。また翌1910年にもさらに軽量化と空力改善を進めた「27/80HP」でまたしても1から3位を占めた。この2年の勝利で設計者としてもレーサーとしても名声を得ただけでなく、ランチアのヴィンチェンツォ・ランチア、ブガッティのエットーレ・ブガッティ、ボクスホールのローレンス・ポメロイ、タトラのハンス・レドヴィンカなど当時の一流設計者と親交を結び、技術的な討論を交わす機会を得、特にレドヴィンカとは終生友人として交際した。 自動車だけでなく各種の航空エンジンを開発し、1910年には最初の航空機用エンジンが出荷され、この時にはオーストリアにはまだ飛行機は1機もなかったが、ポルシェは飛行機の将来性に気がついておりエンジン開発を継続するよう主張、第一次世界大戦前ダイムラーの航空用エンジンの優秀性はすでに世界に知れ渡った。重量軽減のため薄い鋼鈑をシリンダーバレルの周囲に溶接しシリンダージャケットとする手法は後にダイムラー・ベンツで設計したスーパーチャージャー付エンジンに採用されただけでなく、彼がダイムラー・ベンツを去った後もV型12気筒エンジンDB 601や、メルセデス・ベンツ・300SLRの直列6気筒エンジンにも見られる。1912年から彼は空冷エンジンに切り替えた。最初の空冷航空エンジンは水平対向4気筒OHVで、当時傑作と認められ航空先進国だったイギリスのビアードモアでも生産されるほどであった。このエンジンはイギリスのサイエンス・ミュージアムに展示されているが、これを見ると驚く程フォルクスワーゲンのエンジンと似ているという。1918年にはプロペラ回転の隙間を縫って弾が発射されるよう設計していた。 これらの業績からアウストロ・ダイムラーの総支配人となり、オーストリア皇帝よりフランツ・ヨーゼフ十字勲章と軍功労十字勲章を、1917年にウィーン工科大学から名誉博士号を授与された。叩き上げの技術者で大学を卒業していないポルシェが「博士」の敬称で呼ばれているのは、自動車工学の実践的側面への傑出した功績を称えて授与されたこの名誉学位に由来する。 ポルシェは自分の設計したエンジンが装備された飛行船のテスト飛行にも参加し、危うく大事故に巻き込まれそうになりながらも自ら機械を修理して何とか生還した。 1918年第一次世界大戦に敗れたオーストリア=ハンガリー帝国が解体され国民が窮乏したのを見てポルシェは今後価格も維持費も安い小型車が市場に受け入れられると感じ、経営陣に対して小型車の開発をたびたび提言したが受け入れられなかった。しかし友人のサッシャ・コロウラート伯爵が小型高性能車開発のアイデアに共感して全ての研究開発費を援助することとなり、4台の小型スポーツカーが製作された。ボアφ68.3mm×ストローク75mmの直列4気筒1,100ccSOHC45hpエンジンを積んだこのスポーツカーは出資者の名を取り「サッシャ」と名づけられてタルガ・フローリオに出場、1,100ccクラスで1、2位を獲得した。2,000cc以上クラスに出場した1両も当時無名だったアルフレート・ノイバウアーの運転により平均速度55.5km/hで6位または7位に食い込んだ。この年だけで「サッシャ」は51のレースに出場、43の1位と8の2位を獲得しポルシェとアウストロ・ダイムラーの名を全ヨーロッパに轟かせた。ポルシェは「スポーツでの成果により車名が知られ、それにより自動車が売れる」旨主張したが、重役会は「資金が掛かりすぎる」旨を主張しこれに懐疑的であった。 ポルシェはさらに2,000ccと3,000ccのエンジンを積むスポーツカーを試作し、生産の準備に入っていたが、1922年秋モンツァにおけるイタリアGPで「サッシャ」のワイヤーホイールの材質の問題からクラッシュしてドライバーが死亡する不幸な事故があり、アウストロ・ダイムラーの経営陣はこの事故の責任を全てポルシェに押しつけ、レースを禁止してしまった。これに憤慨したポルシェは即日辞表を提出し退職した。
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