たすくの家系と芸術環境とは? わかりやすく解説

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たすくの家系と芸術環境

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 05:01 UTC 版)

吉田たすく」の記事における「たすくの家系と芸術環境」の解説

鳥取県倉吉市は、奈良時代伯耆国中心として国庁国分寺置かれ江戸時代鳥取藩主家老荒尾志摩領地として自分手政治が行われ、伯耆の国文化中心として栄えた今でも当時面影を残す多くが「国の重要伝統的建造物群保存地区」として残っている。そして芸術活動も盛んであった山陰お茶盛んな地方でもあり、倉吉でも元来武士の家や多少裕福な家ではどこでも日常的にお茶点てられ飲まれていた。このお茶通して文化交流も盛んで、流派表千家裏千家などだけでなく山陰地方には不昧流なども流行っていた。(なお、「たすく」はこの不昧流茶道を、佐久子は表千家流を習っている。) 倉吉そのような文化地方であったからこそ複雑で芸術的な絣が生まれ土壌ともなったではないかまた、倉吉には大正時代から「砂丘社」という芸術文化団体があった。「砂丘社」は大正9年1920年)に倉吉中井金三らが創立し前田寛治河本緑石石田利三など鳥取地方芸術家集まり展覧会音楽会舞踏公演など幅広い分野活動する芸術復興運動であった。とくに若手芸術家がよく集まり積極的に活動していた。 伊藤家家系は、鳥取藩名医多く輩出した家柄である。実の祖父伊藤健長崎横浜西洋医学学びイギリス渡り明治3年1870年帰国当時としてはめずらしいイギリス帰り医者として城下開業鳥取県への多大な功績で贈正五位受勲義理の息子伊藤隼三援助し医者へ。隼三のために病室六十三という県内一の大病院私立因幡病院(後の鳥取県立中央病院)を創立する伊藤隼三伊藤健庇護のもと東京大学及びヨーロッパで十分な勉強行い52歳京都帝国大学医科大学長に就任し初期京大医学部発展させ、日本医学界貢献をする。定年後鳥取帰郷して地域医療のために献身的につとめた伊藤本家継いだ養祖父伊藤長崎西洋医学研鑽した医師である。倉吉市誌にも記載されている文化人で、南画を描くことに長じ、号を旭堂(きょくどう)という。 伊藤家芸術家の集まるサロンでもあり、地域における情報発信の場所でもあった。伊藤家ではこのような芸術環境浸り書画骨董身近に育ち芸術家多くでている。 昭和初期民芸運動がおこるが、各地訪れていた民芸運動家の河井寛次郎柳宗悦浜田庄司達は戦前から度々山陰訪れており、鳥取には民芸運動家の吉田璋也鳥取民芸館も創設された。時には倉吉へも足を伸ばして砂丘社の人たちや民芸運動家とも交流しており倉吉民芸運動盛んなとなっていた。伊藤病院継いでいた兄の伊藤宝城本人芸術家であり、多く芸術家の集まるサロンともなっていたが、吉田璋也紹介河井寛次郎宗税、浜田庄司棟方志功なども訪れている。とくに棟方志功は度々倉吉訪問してその都度伊藤宝城とも親交深めている。昭和31年1956年8月にも倉吉行っており、その時伊藤宝城お世話になったお礼にと彩色画を書いている。 たすくはこのような環境育ち倉吉中学現在の鳥取県立倉吉東高等学校)の頃には、美術志向はっきりし民芸運動影響などもあり、たすく流の生き方確立されてく。戦時中東京研数専門学校物理科に入学

※この「たすくの家系と芸術環境」の解説は、「吉田たすく」の解説の一部です。
「たすくの家系と芸術環境」を含む「吉田たすく」の記事については、「吉田たすく」の概要を参照ください。

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