たすくの家系と芸術環境
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「吉田たすく」の記事における「たすくの家系と芸術環境」の解説
鳥取県倉吉市は、奈良時代、伯耆国の中心として国庁や国分寺が置かれ、江戸時代は鳥取藩主席家老荒尾志摩の領地として自分手政治が行われ、伯耆の国の文化の中心として栄えた。今でも当時の面影を残す多くの蔵が「国の重要伝統的建造物群保存地区」として残っている。そして芸術活動も盛んであった。 山陰はお茶の盛んな地方でもあり、倉吉でも元来武士の家や多少裕福な家ではどこでも日常的にお茶が点てられ飲まれていた。このお茶を通しての文化の交流も盛んで、流派は表千家裏千家などだけでなく山陰地方には不昧流なども流行っていた。(なお、「たすく」はこの不昧流茶道を、佐久子は表千家流を習っている。) 倉吉はそのような文化の地方であったからこそ複雑で芸術的な絣が生まれる土壌ともなったのではないか。また、倉吉には大正時代から「砂丘社」という芸術文化の団体があった。「砂丘社」は大正9年(1920年)に倉吉の中井金三らが創立し、前田寛治、河本緑石、石田利三など鳥取地方の芸術家が集まり展覧会や音楽会、舞踏公演など幅広い分野で活動する芸術復興運動であった。とくに若手の芸術家がよく集まり積極的に活動していた。 伊藤家の家系は、鳥取藩で名医を多く輩出した家柄である。実の祖父・伊藤健蔵は長崎や横浜で西洋医学を学びイギリスに渡り明治3年(1870年)帰国。当時としてはめずらしいイギリス帰りの医者として城下で開業。鳥取県への多大な功績で贈正五位を受勲。義理の息子伊藤隼三を援助し医者へ。隼三のために病室数六十三という県内一の大病院・私立因幡病院(後の鳥取県立中央病院)を創立する。 伊藤隼三は伊藤健蔵の庇護のもと東京大学及びヨーロッパで十分な勉強を行い、52歳で京都帝国大学医科大学長に就任し、初期の京大医学部を発展させ、日本の医学界に貢献をする。定年後鳥取に帰郷して地域医療のために献身的につとめた。 伊藤本家を継いだ養祖父・伊藤良蔵も長崎で西洋医学を研鑽した医師である。倉吉市誌にも記載されている文化人で、南画を描くことに長じ、号を旭堂(きょくどう)という。 伊藤家は芸術家の集まるサロンでもあり、地域における情報発信の場所でもあった。伊藤家ではこのような芸術環境に浸り、書画骨董を身近に育ち、芸術家が多くでている。 昭和初期に民芸運動がおこるが、各地を訪れていた民芸運動家の河井寛次郎、柳宗悦、浜田庄司達は戦前から度々山陰を訪れており、鳥取には民芸運動家の吉田璋也の鳥取民芸館も創設された。時には倉吉へも足を伸ばして砂丘社の人たちや民芸運動家とも交流しており倉吉は民芸運動の盛んな町となっていた。伊藤病院を継いでいた兄の伊藤宝城は本人も芸術家であり、多くの芸術家の集まるサロンともなっていたが、吉田璋也の紹介で河井寛次郎、柳宗税、浜田庄司、棟方志功なども訪れている。とくに棟方志功は度々倉吉を訪問して、その都度伊藤宝城とも親交を深めている。昭和31年(1956年)8月にも倉吉に行っており、その時は伊藤宝城にお世話になったお礼にと彩色画を書いている。 たすくはこのような環境で育ち、倉吉中学(現在の鳥取県立倉吉東高等学校)の頃には、美術志向がはっきりし、民芸運動の影響などもあり、たすく流の生き方が確立されてく。戦時中に東京研数専門学校物理科に入学。
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