『旅愁』検閲
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1946年1月、『旅愁』一篇を改造社から改造社名作選として刊行、改造社にとっては戦後初の出版であった。この小説が戦前の大ヒット商品であったことや社長と横光との親密な関係などが要因となり、その他に平行して進められていた石坂洋次郎の『若い人』や林芙美子の『放浪記』より前に改造社の戦後出版第一号に選ばれた。同年2月に『旅愁』二篇、6月に『旅愁』三篇、7月に『旅愁』四篇を刊行した。当時活字に飢えていた日本人読者は『旅愁』や『改造』などに殺到し、『旅愁』各巻は10万部も売れた。横光の作品は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の下、民間検閲局(CCD)による検閲と表現規制によって改変されたもので、検閲によって削除された部分は反ヨーロッパ的な表現であった。 異同の例 例えば、戦前の版では 「日本がそのため絶えず屈辱を忍ばせられたヨーロッパ」 は、 「日本がその感謝に絶えず自分を捧げて来たヨーロッパ」 へと、ヨーロッパに対して否定的な評価から肯定的な評価へと書き換えさせられた。 戦前の版では 「何が詭弁だ。万国共通の論理といふような立派なもので、ヨーロッパ人はいつでも僕らを誤摩化してきたぢやないか」 は、 「何が詭弁だ。万国共通の論理といふ風な、立派なものがあるなら、僕だつて自分をひとつ、そ奴で縛つてみたいよ」 と、ヨーロッパへの名指しの批判は削除された。 ほかにも戦前の版では 「しかし、われわれがヨーロッパ、ヨーロッパと騒ぐのは、これは結局はヨーロッパの植民地を守護してやつているようなものだね。植民地を沢山抱きかかへていて、平和平和と云つたつて、そんなことが通るもんぢやない。それを通さうとする常識が、こりや、やつと今ごろ腐りかかつて来たのだ。」 は、 「しかし、われわれがヨーロッパ、ヨーロッパと騒いで来たのは、騒いだ理由はたしかにあつたね。いつたい自分の国を善くしたいと思ふのは人情の常として、誰にでもあるものだが、騒ぎすぎると、次ぎには要らざる人情まで出て来るのが恐いよ。」 とヨーロッパの植民地主義についての言及が削除され、「人情」が代わりに使用された。 戦前の版では 「日本だけは滅んでくれちや困るとひそかに思ふ」 は、GHQ版では 「たつた一つの心だけ失つちや困ると思ふ」 へと書き換えさせられた。 「アメリカ人」は「その男」と国籍不明に書き換えさせられた。 戦前の版では 「大神に捧げまつらん馬曳きて峠を行けば月冴ゆるなり」 は、GHQ版では 「父母と語る長夜の爐(炉)の傍に牛の飼麦はよく煮えてをり」 に変更された。 このようにヨーロッパの植民地主義や欧米を批判していると読まれるおそれのある箇所はすべて改変され、「人情」「ヒューマニズム」「心」といった普遍的な問題に置き換えられ、愛国心についての発言なども削除された。 これらの検閲について山本健吉は「カットされたが、たいしたことはなかった」と評価しているが、意味が逆になる書き換えも行われ、百カ所以上がカットされた。戦前版と戦後版の異同については『定本 横光利一全集』第九巻「編集ノート」に対照表が掲載されている。なお、新潮文庫や講談社文芸文庫の『旅愁』はこのGHQ/SCAPによる検閲を受けた1950年の改造社版を採用している。岩波文庫版は定本全集版にしたがい、『戦前版』を本文としている。 『旅愁』の訂正に横光はひどく神経を使ったらしく、敗戦の衝撃と相まって横光は健康を崩した。当時『中央公論』の編集長だった木佐木勝は日記に「横光氏もなかなか立ち直れないようである。梅雨期から真夏へかけて、気候の悪条件の中で、くずれゆく肉体を支える横光氏の精神力が問題である。戦後の心の深手は当分いえそうもない。問題の「旅愁」もいよいよ最終巻を迎えて、作者の健康のさらに衰えたことを聞く。なにかいたいたしい気がしてならない」と書いた。 『旅愁』は合計30万部売れたが、その印税は封鎖預金で支払われた。封鎖預金は月額300円しか引き出せない仕組みになっており、いくら『旅愁』が売れても生活は窮迫した。川端康成が、刊行予定の書籍の前払いの名目で、当時重役をしていた鎌倉文庫から出してくれた3千円で糊口をしのぐなどした。
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