『旅菴全書』(1756)の于山
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「于山島」の記事における「『旅菴全書』(1756)の于山」の解説
1756年(英祖32年)、申景濬が編纂を担当した『旅菴全書』巻之七「疆界考」に于山の名が表れる。本文にある通りこの一節は『輿地志』の記述と他の文献や地図を見比べ、于山島と鬱陵島は別の島で、一島が松島で、恐らく二島とも于山国であろうとしている。「その所謂松島」とは、『輿地志』が編纂された後日本に渡った安龍福の証言を引用している可能性が高い。安龍福は上述の『粛宗実録』の記載にあるように松島が于山島であるとしている。しかし、この頃すでに多くの鬱陵島の古地図には『旅菴全書』の記述と同様の表現で「所謂于山島」と書いた島が描かれており、これらの島はその位置関係などからほぼ現在の「竹嶼」に比定できる。申景濬は竹嶼に比定できる于山島を日本人のいう松島(現在の竹島)と誤認していたことになる。 原文 申景濬『旅菴全書』巻之七 「疆界考」十二 鬱陵島按 輿地志云 一説于山鬱陵本一島 而考諸圖志二島也 一則其所謂松島 而蓋二島 倶是于山國也 翻訳 申景濬『旅菴全書』巻之七 「疆界考」十二 鬱陵島思案すると、輿地志では一説に于山と鬱陵は本来一島であると言っているが、しかし諸図志を考えると、二島である。一つは、すなわちその所謂松島であり、恐らく二島は共に于山国である。
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