『おくのほそ道』研究への影響
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「曾良旅日記」の記事における「『おくのほそ道』研究への影響」の解説
本書が再発見されて刊行される前は、例えば樋口功などはその著『芭蕉研究』において『雪丸け』などから旅行中の発句の姿を見るべきとするなど、間接的な資料を用いて考証を行っていた。。刊行後は、各発句の初案形を知るには「俳諧書留」を参照すればよく、必須の資料となった。 山本は本書を世に出すに際し、端書に「如斯日記が今日まで完全に残されてあつたことは私の思ひもつかぬ驚異であつた。奥の細道行脚の日より約二百五十年間、芭蕉研究に於ける汗牛充棟も啻ならざる文書記録等にも、未だ嘗て顕はれたことの無い史料である」と述べている。また志田は同書の序文において、「これによつて学会の蒙る裨益は蓋し大なるものがあろう」と評価し、従来『青蔭集』などにおける記述へ疑いの目が向けられていたことについては、「今度随行日記が現はれて見るとこれが全く逆になり却つてこの随行日記の存在を立証するものになるのである」として、また様々な傍証を挙げて曾良の真筆に間違いの無いものとしている。 この翻刻により『おくのほそ道』との間に多くの齟齬が指摘されることとなり、紀行の虚構性、また制作意識の問題が大きく取り上げられるようになった。もとより志田は本書の再発見に先立つ1942年に「芭蕉と制作意識」と題して奥州行脚の旅先で残された書簡などから、明らかに旅程順に沿わず配置された句や季語を変更した句があって旅行の事実のままではなくて、『おくのほそ道』には作為と虚構性が見られると世に問うていた。『国文学 解釈と鑑賞』は1951年に『奥の細道と曾良日記特輯号』を出し、本書の再発見を巡り様々な学説を併記した。中でも小宮豊隆は「曽良日記の真実性」と題して「芭蕉の記録の錯誤や芭蕉の記憶の混淆はある。然し芭蕉による意識的な虚構の痕は少しも見られない」との信念を表したが、後に杉浦や井本農一、阿部喜三男らが詳細に検討した結果、紀行の作為と虚構性は明らかであると、広く学会に定着した。 以後『芭蕉おくのほそ道・付曽良旅日記』(萩原恭男校注 岩波文庫)や『新訂おくのほそ道・附曽良随行日記』(潁原退蔵・尾形仂訳注 角川日本古典文庫)など『おくのほそ道』注解書の多くで「元禄二年日記」や「俳諧書留」を翻刻するようになった。 金森敦子は正面から「曽良旅日記」の解説を試み、他の時代の文献も参照し、旅をし、種々の発見をした。おくの細道の行程は450里前後である。曽良の記した不定時法を計算しなおし、今まで注目されていなかった、番所の出入りに注目した。距離、時間、番所、地方俳人の動向をキーワードとした。また、芭蕉の最初の希望は塩釜神社の桜をみることであったが、これは無理で、随行者に選ばれた曽良の調査で、芭蕉の健康もあり、出発を遅らせ、おくの細道は歌枕の探訪となった。7月5日-7日(陽暦8月19日)の項で、芭蕉立腹すのとあり、当時の芭蕉の置かれた立場がよくわかる。おくの細道156日間で芭蕉が怒り心頭に発したのはこの日だけである。低耳が紹介状を書いていたので(天屋弥惣兵衛へ)それを持って天屋を訪ねたが、不快になって飛び出した。天屋では2度にわたって使用人を走らせて戻って泊ってくれといったが、芭蕉の怒りはおさまらなかった。天屋弥惣兵衛は俳諧の正統は貞門派であるとかたく信じ、次々と新風を打ち立てている芭蕉を異端者扱いにし、若さゆえに(35歳)ついトゲのある言葉を口にしたのかもしれない。
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