曾良
そら
信州上諏訪の人。本名、岩波庄右衛門正字<まさたか>。 上諏訪の高野七兵衛長男として誕生したが、なぜか母の実家河西家に引き取られて成長。その後、父の妹の婚家である岩波家に養子縁組して、岩波姓を名乗る。『奥の細道』で「河合」姓が出てくるが、芭蕉の創作と思われる。 曾良は、伊勢長嶋藩に仕えていたが、後に浪人となって江戸に上る。貞亨年間の早い時期 (貞亨2年冬あたりか?)に入門した江戸蕉門古参の一人。芭蕉より5歳年少。「竹林の七賢人」ならぬ「深川の八貧」といって芭蕉庵に頻繁に出入りしていた芭蕉の最も信頼した弟子の一人(『雪丸げ』)。後に、41歳の元禄2年『奥の細道』に随行。その著『曾良旅日記』が残されたことで、『奥の細道』の旅の実際が明らかになった功績は大きい。また、『鹿島詣』に 際しても宗波らと共に芭蕉に随行している。曾良は、地誌や神道に詳しい教養人でもあったという。 すでに随行者として決まっていた路通に替わって曾良が『奥の細道』随行者となったのは、彼に越後の村上にある旧主の墓参をしたいという都合があったこと、加えて地誌に精通していたこと が与かって大きかったらしい。 曾良には、江戸幕府の御庭番(スパイ)を生業としていたなどという説があるがにわかに信じがたい。 ただ、宝永6年、61歳で徳川幕府派遣の巡見使に任ぜられて九州各地を監察して回り、その執務中に対馬藩の壱岐勝本で死去したとされるなど、幕府との関わりが有ったことは事実である。壱岐で死んだというのに、その後正徳6年に上州伊香保の温泉で曾良に会って旧交を暖めたという人が出てきたりして(並河誠所著『伊香保道記』)、曾良の身辺はにわかにスリラーめいてきた。宝永7年没。享年62歳。
曾良宛書簡1(元禄7年5月16日)
曾良宛書簡2(元禄7年閏5月21日)
曾良宛書簡3(元禄7年7月10日)
曾良の代表作
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蚕飼する人は古代の姿かな(『奥の細道』)
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湯殿山銭踏む道の泪かな(『奥の細道』)
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象潟や料理何食う神祭(『奥の細道』)
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終夜秋風きくや裏の山(『奥の細道』)
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股引や一花摺の萩ごろも(『鹿島詣』)
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熊野路や分けつつ入れば夏の海 (『嵯峨日記』)
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大峰や吉野の奥を花の果て (『嵯峨日記』)
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箱根まで送りてふっと出て関より帰る五月雨 (『別座舗』)
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いづくにかたふれ臥とも萩の原(『猿蓑』)
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疊めは我が手のあとぞ紙衾(『猿蓑』)
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浦風や巴をくづすむら鵆(『猿蓑』)
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破垣やわざと鹿子のかよひ道(『猿蓑』)
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向の能き宿も月見る契かな(『猿蓑』)
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むつかしき拍子も見えず里神樂(『猿蓑』)
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大峯やよしのゝ奥の花の果(『猿蓑』)
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春の夜はたれか初瀬の堂籠(『猿蓑』)
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涼しさや此庵をさへ住捨し(『猿蓑』)
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病僧の庭はく梅のさかり哉(『續猿蓑』)
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何魚のかざしに置ん菊の枝(『續猿蓑』)
曽良
姓 | 読み方 |
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曽良 | かつら |
曽良 | そら |
河合曾良
(曽良 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/23 00:51 UTC 版)
河合 曾良 | |
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誕生 | 1649年??月??日![]() |
死没 | 1710年6月18日頃![]() |
職業 | 諸国巡見使随員 |
ジャンル | 俳句 |
代表作 | 曾良旅日記 |
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河合 曾良(かわい そら 慶安2年(1649年)[1] - 宝永7年5月22日(1710年6月18日)[1])は、江戸時代中期の俳人。本名は岩波庄右衛門正字[1]、通称は河合惣五郎[1]。松尾芭蕉の『奥の細道』における奥州・北陸の旅に同行した弟子[2]。蕉門十哲の一人とされる場合もある[3]。
経歴
信濃国高島城下の下桑原村(現長野県諏訪市)の高野七兵衛の長男として生まれる[1]。幼名は与左衛門。その後、両親が亡くなったため伯母の養子となり、岩波庄右衛門正字と名乗る[1]。12歳の時、養父母が亡くなったため伊勢国長島の住職・深泉良成の元に引き取られる[1]。
寛文8年(1668年)頃より長島藩主松平康尚に仕え[1]、河合惣五郎を名乗る。延宝4年(1676年)に「袂から春は出たり松葉銭」の句を詠んでおり、この時点で俳諧を嗜んでいた[1]。天和元年(1681年)頃に致仕して江戸に下り[1]、吉川惟足に吉川神道を学ぶ[1]。貞享年間に松尾芭蕉に入門し[1]、同4年(1687年)の『鹿島紀行』[1]、元禄2年(1689年)からの『奥の細道』の旅に随行し[1]、『曾良旅日記』(天理大学附属天理図書館所蔵、重要文化財)を残した[1]。
将軍徳川家宣の命により、宝永6年(1709年)に幕府の巡見使随員となり九州を廻るが[1]、翌年、壱岐国可須村風本(現長崎県壱岐市勝本浦)で巡見の途上に病没した[1]。享年62。戒名は賢翁宗臣居士[1]。墓所は壱岐島の能満寺。元文5年(1740年)、没後30年を経て故郷・諏訪の正願寺にも墓標が建てられた。
平成6年(1994年)5月24日に旧勝本町と諏訪市が河合曾良の終焉の地と生誕の地としての縁で友好都市提携を結び、旧勝本町が旧壱岐郡3町と合併(平成の大合併)後も壱岐市に受け継がれた。
人物像
温厚篤実な人物で、芭蕉によく尽くした[1]。神道家としての学識も深かった[1]。一方で蕉門の俳人としては才能に恵まれず、現存する発句は130句程度で観念的な詠みぶりが目立つ[1]。
関連書籍
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- 『芭蕉奥の細道 付曾良旅日記、奥細道菅菰抄』 萩原恭男校注、岩波文庫
- 『おくのほそ道―現代語訳 曾良随行日記付』 尾形仂訳・校注、角川ソフィア文庫
- 桜井武次郎『奥の細道行脚 「曾良日記」を読む』 岩波書店、200
脚注
関連項目
- >> 「曽良」を含む用語の索引
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