「直虎」と「次郎法師」との関係に関する議論
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「井伊直虎」の記事における「「直虎」と「次郎法師」との関係に関する議論」の解説
祝田郷の有力者宛に徳政令の実施を命する書状に「次郎直虎」の署名が見られる以外に、「井伊直虎」という名の人物についての同時代史料がほとんどないことから、その実態、ひいては性別についても様々な議論、異説が存在している。 井伊直虎=次郎法師(女) とされた根拠は、先述の徳政令の書状の署名より「当時“次郎直虎”と名乗る領主が居た」ことと、戦国時代の井伊直平とその子孫の活躍、井伊直政の幼少期までが叙述される『井伊家伝記』にて、”次郎法師”が同国の国衆・井伊氏の事実上の当主を務め、「女地頭」と呼ばれた、との記述による。当時の一次史料や、『井伊家伝記』自体には次郎法師が「直虎」を名乗ったという明確な記述はない。また、『井伊家伝記』自体も、誤伝を含む地元の伝承をもとにして記述されており、史実とは言い難い内容も多い史料である。特に井伊直親と許嫁であったという点は、直親が信州に逃れた天文13年(1544年)時点で、直親は10歳、直盛は19歳であり、この時その娘(直虎)が生まれていたとしても、出家しようという判断力のある年齢ではないため、史実ではなく創作されたものとする考えもある。大石泰史は、「次郎法師、そして直虎が男性か女性かは断定出来ない」と著書で述べつつも、「同時期に井伊家内部で「次郎」を名乗る人物が二人いたとは考え難く、次郎法師と次郎直虎は同一人物であろう」と推測している。 このような状況下で、2016年(平成28年)12月、京都市の井伊美術館館長・井伊達夫が「『井伊直虎は女性(次郎法師)ではなく別人の男性』と示す史料が新たに確認された」と発表した。それによると、「『井伊直虎』とは今川氏家臣・関口氏経の息子(次郎法師の母方の従兄弟にあたる人物)を「井伊次郎」と名乗らせて当主としたものであり、井伊直盛の娘である次郎法師とは別人である」という。発見された史料は、享保20年(1735年)に編集された『守安公書記』(全12冊)で、その中には寛永17年(1640年)に新野親矩(井伊直盛の妻及び関口氏経の兄弟)の孫で井伊家家老を務めた木俣守安が聞き書きした記録を、子孫の木俣守貞が筆写したという『雑秘説写記』も収められていた。井伊館長が約50年前に骨董品店で入手した史料の中にあり、取材をきっかけに読み返したところ「井伊次郎」の記述を見つけたという。史料内では今川氏真の配下にあった井伊家について記されており、井伊谷の領地が新野親矩の甥で、先述の関口氏経の子である「井伊次郎」に与えられたと後から書き加えられた形での記述があり、これが別人説の根拠とされる。一方で同史料中の記述は「井伊次郎」に留まり、仮名である「直虎」の文字は見当たらなかったという。 井伊直虎と次郎法師の諸主張主張者両者の関係性別出自井伊達夫別人 女性(次郎法師)男性(直虎) 井伊直盛の娘(次郎法師)関口氏経の子(直虎) 小和田哲男同人 女性 井伊直盛の娘 黒田基樹同人 男性 関口氏経の子 磯田道史別人 女性(次郎法師)男性(直虎) 井伊直盛の娘(次郎法師)関口氏経の子(直虎) 小和田哲男は、『守安公書記』が江戸時代に書かれたもので同時代史料でないこと、当該の「井伊次郎」が直虎である記述がないこと、「次郎」は井伊家総領代々の仮名であり、次郎法師が存在する段階で別の人物が「井伊次郎」を名乗るのは考えにくい点を指摘している。また、『龍潭寺文書』中に次郎法師名で発給された印判状があり、出家した次郎法師が一時的にではあれ井伊谷を支配していたことは明らかである」としている。 黒田基樹は、『雑秘説写記』における「井伊次郎」が関口氏経の息子であるという記述について、唯一確認されている直虎の発給文書において直虎との関連性が不明だった関口氏経が連署している理由として十分であるとし、これをもって直虎の出自が関口氏であると「確定されたといってよい」と断じている。また、次郎法師が発給した永禄8年の龍潭寺寄進状において、書式が男性が使用する真名文であること、花押ではなく黒印が用いられていることから、次郎法師は元服前の男子だったと考えられるため、次郎法師は直虎の幼名であったと推定している。 磯田道史は、瀬戸方久宛今川氏真判物によれば永禄11年(1568年)9月においては次郎法師が井伊谷の支配者であったと今川氏が認識していたと指摘し、その上で同年11月の書状に「直虎」の名前が急に登場することから、磯田は武田・徳川の圧力を受けて滅亡寸前だった氏真が、次郎法師が支配する井伊谷に傀儡当主、すなわち直虎を送り込んだが、翌12月の家康の井伊谷併呑と今川家滅亡によって追い出されたと推測した。この主張は、「井伊次郎法師(女性)≠井伊次郎直虎(男性)」という点では井伊達夫と一致しているものの、二人ともが当主の座についているという立場である。 また渡邊大門は、「『守安公書記』『雑秘説写記』は江戸中期に成立した編纂物で、そのまま史実と認めるにはいかず、ほかの裏付けとなる史料による検証が必要であろう」と慎重な姿勢をとっている。
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