「直虎」と「次郎法師」との関係に関する議論とは? わかりやすく解説

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「直虎」と「次郎法師」との関係に関する議論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 09:53 UTC 版)

井伊直虎」の記事における「「直虎」と「次郎法師」との関係に関する議論」の解説

祝田郷の有力者宛に徳政令実施を命する書状に「次郎直虎」の署名見られる以外に、「井伊直虎という名の人物について同時代史料ほとんどないことから、その実態、ひいては性別について様々な議論異説存在している。 井伊直虎次郎法師(女) とされた根拠は、先述徳政令書状署名より「当時次郎直虎”と名乗る領主居た」ことと、戦国時代井伊直平その子孫活躍井伊直政幼少期までが叙述される『井伊家伝記』にて、”次郎法師”が同国国衆井伊氏事実上当主務め、「女地頭」と呼ばれた、との記述よる。当時一次史料や、『井伊家伝記自体には次郎法師が「直虎」を名乗ったという明確な記述はない。また、井伊家伝記自体も、誤伝を含む地元の伝承をもとにして記述されており、史実とは言い難い内容も多い史料である。特に井伊直親許嫁であったという点は、直親信州逃れた天文13年1544年時点で、直親10歳、直盛は19歳であり、この時その娘(直虎)が生まれていたとしても、出家しようという判断力のある年齢はないため、史実ではなく創作されものとする考えもある。大石泰史は、「次郎法師、そして直虎男性女性かは断定出来ない」と著書述べつつも、「同時期に井伊家内部で「次郎」を名乗る人物二人いたとは考え難く次郎法師次郎直虎同一人物であろう」と推測している。 このような状況下で、2016年平成28年12月京都市井伊美術館館長井伊達夫が「『井伊直虎女性次郎法師ではなく別人男性』と示す史料新たに確認された」と発表した。それによると、「『井伊直虎』とは今川氏家臣・関口氏経息子次郎法師の母方の従兄弟にあたる人物)を「井伊次郎」と名乗らせて当主したものであり、井伊直盛の娘である次郎法師とは別人である」という。発見され史料は、享保20年1735年)に編集された『守安公書記』(全12冊)で、その中には寛永17年1640年)に新野親矩井伊直盛の妻及び関口氏経兄弟)の孫で井伊家家老務めた木俣守安聞き書きした記録を、子孫木俣守貞筆写したという『雑秘説写記』も収められていた。井伊館長が約50年前骨董品店入手した史料中にあり、取材きっかけ読み返したところ「井伊次郎」の記述見つけたという。史料内では今川氏真配下にあった井伊家について記されており、井伊谷領地新野親矩の甥で、先述関口氏経の子である「井伊次郎」に与えられたと後から書き加えられた形での記述があり、これが別人説根拠とされる一方で史料中の記述は「井伊次郎」に留まり仮名である「直虎」の文字見当たらなかったという。 井伊直虎次郎法師の諸主張主張両者の関係性別出自井伊達夫別人 女性次郎法師男性直虎井伊直盛の娘(次郎法師関口氏経の子直虎小和田哲男同人 女性 井伊直盛の娘 黒田基樹同人 男性 関口氏経の子 磯田道史別人 女性次郎法師男性直虎井伊直盛の娘(次郎法師関口氏経の子直虎小和田哲男は、『守安公書記』が江戸時代書かれたもので同時代史料でないこと、当該の「井伊次郎」が直虎である記述がないこと、「次郎」は井伊家総領代々仮名であり、次郎法師存在する段階別の人物が「井伊次郎」を名乗るのは考えにくい点を指摘している。また、龍潭寺文書中に次郎法師名で発給され印判状があり、出家した次郎法師一時的にではあれ井伊谷支配していたことは明らかである」としている。 黒田基樹は、『雑秘説写記』における「井伊次郎」が関口氏経息子であるという記述について、唯一確認されている直虎発給文書において直虎との関連性不明だった関口氏経連署している理由として十分であるとし、これをもって直虎出自関口氏であると「確定されといってよい」と断じている。また、次郎法師発給した永禄8年龍潭寺寄進状において、書式男性使用する真名文であること、花押ではなく黒印用いられていることから、次郎法師元服前の男子だったと考えられるため、次郎法師直虎幼名であった推定している。 磯田道史は、瀬戸方久今川氏真判物によれば永禄11年1568年9月においては次郎法師井伊谷支配者であった今川氏認識していたと指摘しその上で同年11月書状に「直虎」の名前が急に登場することから、磯田武田徳川圧力受けて滅亡寸前だった氏真が、次郎法師支配する井伊谷傀儡当主、すなわち直虎送り込んだが、翌12月家康井伊谷併呑今川家滅亡によって追い出されたと推測した。この主張は、「井伊次郎法師女性)≠井伊次郎直虎男性)」という点では井伊達夫一致しているものの、二人とも当主の座についているという立場である。 また渡邊大門は、「『守安公書記』『雑秘説写記』は江戸中期成立した編纂物で、そのまま史実認めるにはいかず、ほかの裏付けとなる史料による検証が必要であろう」と慎重な姿勢とっている。

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