「田楽がつぼ」・「田楽がくぼ」・「田楽はさま」とは? わかりやすく解説

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「田楽がつぼ」・「田楽がくぼ」・「田楽はさま」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 00:16 UTC 版)

桶狭間の戦いの戦場に関する議論」の記事における「「田楽がつぼ」・「田楽がくぼ」・「田楽はさま」」の解説

今川義元本陣地あるいは戦死地を示す地名として江戸時代には「屋形はさま」のほかに、「田楽がつぼ」・「田楽がくぼ」・「田楽はさま」といったものが数多く使用されている。「田楽がつぼ」の初出は『中古日本治乱記』(1602年慶長7年))、「田楽がくぼ」の初出は『見聞集』(寛永後期)、「田楽はざま」の初出は山澄英龍の『合戦記』(1690年元禄3年))とみられる。これらのうち、「屋形はさま」は先に述べたように、「桶狭間」を改称したものだとする記述も多い一方で、「田楽がつぼ」・「田楽がくぼ」・「田楽はさま」は桶狭間の中の小地名小字)として認識されることが多い。また『日本戦史 桶狭間役』のように、「桶狭間」と「田楽狭間」を別個のものとして見なす立場もある。 「つぼ」とは窄まった一角をいって「坪」や「壺」などと書き、「くぼ」は山あい谷間にある低湿地を指す言葉で「凹」や「窪」の字が当てられ、「はさま」は山と山に挟まれ谷間をいう言葉で「狭間」・「迫」・「峡」などの字が当てられるが、いずれも地形的に周囲山々から見下ろされるような狭隘低地の意味指し桶狭間の「狭間」と同様にこの地特有の地形言い表したものとみられること、あるいは、和光長福寺所蔵する尾州廻間合戦之事』には義元陣所として「田楽久保(くぼ)」と「田楽ガ坪(つぼ)」の両方登場しており、地元においても呼び名表記不統一曖昧であったことを示すことから、意味の上でも使用上でもこの3者に大きな差違無かったものと考えられる一方、「田楽」に意味の力点置いて考えたとき、名古屋市桶狭間古戦場調査委員会は、たとえば今川義元終焉を「田楽刺し」に見立てたではないかという想定挙げており、いずれにしても屋形はさま」と同様に桶狭間の戦いにちなん後付けされた地名ではないかとしている。これに対して名古屋市緑区の「田楽坪」では、室町時代初期より御鍬社が鎮座し農閑期に「田楽」を奉っていたという伝承がある。「田楽坪」という地名も相当古いもので、桶狭間の戦いより以前から存在したか、あるいは後年であっても田楽伝承基づいて名付けられ地名であり、なおかつそれは名古屋市緑区桶狭間北3丁目付近に存在してたとする可能性示している。 名古屋市緑区の「田楽坪」の由来は、しかしあくまで伝承として伝えられてきたものである一方桶狭間の戦いより以前から史料上に登場し確実に存在していたとされる地名が、豊明市にある。室町時代連歌師宗祇による『名所方角抄』(15世紀頃)、仁和寺僧侶尊海による『あづまの道の記』(同)、連歌師里村紹巴による『富士見道記』(16世紀頃)などに登場し平安時代より和歌名所として知られ鎌倉街道要所でもあった二村山豊明市沓掛町)の西麓にあり、室町時代後期には鎌倉街道物騒な一帯として知られ、それそのもの和歌詠まれることがあった「田楽ケ窪(でんがくがくぼ)」である。 「田楽がつぼ」・「田楽がくぼ」・「田楽はさま」、そのいずれも初めこの「田楽ケ窪」から類推されて発生した名であるか、それそのもの混同されたという考えかたがある。『新編合戦記』(1846年弘化3年))の中で田宮篤輝は、私見として、「田楽峡(はさま)」は義元死所であるのに対し、「田楽ケ窪」は東海道より北の鳴海古道鎌倉街道)にある地名のことで、混同しやすいと述べている。2013年平成25年)現在でも豊明市沓掛町字名として「田楽ケ窪」が残っており、藤田医科大学藤田医科大学病院敷地大部分相当する一帯であるが、この、「屋形はさま」(桶狭間古戦場伝説地)から東北東直線で約2.2キロメートル、「田楽坪」(桶狭間古戦場公園)から東北東直線で約3.2キロメートル、そして沓掛城から西へ直線で約1.9キロメートルところにある「田楽ケ窪」という古歌名所を、『中古日本治乱記』(1602年慶長7年))の著者山中長俊や『見聞集』の著者三浦浄心(1565年-1644年)のような他国教養人が、地理不案内なためにそのまま混同した可能性や、あえて近隣の名所織り交ぜて新たな地名作り出した可能性も、十分に考えられる。なお、「田楽がつぼ」や「田楽がくぼ」に比べてやや下った時代登場する田楽はさま」は少なくとも、山澄英龍の造語であることはほぼ過たないであろう野渡述べている。 なお、地名混同に伴い、この和歌名所である「田楽ケ窪」そのもの今川義元本陣地あるいは戦死地の候補地ひとつとして知られ郷土史家の鈴秋一らがこの説を支持している。しかし、早朝沓掛城出立した今川方が正午頃にこの地で休息したとすると進軍速度あまりに緩慢であることになり、田宮篤輝がまったく別個ののである認識しているように、過去から現在に至るまで特に重視されていない説である。

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