「由良兵庫館」について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/28 09:06 UTC 版)
「神霊矢口渡」の記事における「「由良兵庫館」について」の解説
上でも述べたように『神霊矢口渡』は、現在四段目の切「頓兵衛住家」のみ上演されるのが例となっており、三段目の切「由良兵庫館」は「頓兵衛住家」に比べればほとんど上演の機会を得ない。しかし作者の源内としては、この「由良兵庫館」を自賛していたという。また義太夫浄瑠璃のあらすじは込み入ったものが多いが、この「由良兵庫館」の内容もその例に漏れず複雑である。そこで改めて「由良兵庫館」とそれに至るまでの話の流れを整理してみる。 「由良兵庫館」は様々な人物が登場し、新田義興の遺児徳寿丸が首を討たれるが、それがじつは由良兵庫助の子の友千代であったという「身替り」を主題とする。兵庫助と南瀬六郎は徳寿丸の身を守るため、自分たちふたりの外は徳寿丸と友千代を取替えたことを、決して悟られぬようにとしていた。 二段目の「新田館」では、新田の城に主君義興の死と味方の壊滅という悲報がもたらされ、さらにそこへ敵の軍勢が迫るという切羽詰まった事態にあった。そこで降参するほかないという兵庫助の言葉を、この時の六郎は真に受け怒る。だがそのあと六郎は兵庫助からその本心を聞き、友千代を徳寿丸と偽って連れてゆく。兵庫助が最初から本心を六郎に打ち明けなかったので、「敵を欺くにはまず味方から」の言葉通りに湊は兵庫助に騙され、新田の城に踏み込んだ竹沢監物も、六郎が連れ去ったのは徳寿丸だと思わされた。 三段目「焼餅坂」では、六郎は友千代に本当の徳寿丸のように話しかけているが、これも自分が連れているのはあくまでも徳寿丸であると人目を欺くためのものであった。その六郎に絡むのが寝言の長蔵である。犬伏官蔵から六郎と徳寿丸の事を聞いた長蔵は、願西と野中の松のふたりに「何と聞いたか二人の者、さっきにあとの松原でがんばっておいた金の蔓…」と話している。「がんばっておいた」とは「目をつけておいた」という意味である。また「由良兵庫館」で長蔵は兵庫助が討った首を見て、「今日道にて見付けし倅に、相違はごさりませぬ」と竹沢監物にいう。長蔵は六郎のことを焼餅坂に来る前から目をつけており、焼餅坂でも六郎が徳寿丸じつは友千代を笈の中から出す様子を、願西や野中の松とともに陰から見ていた。 「由良兵庫館」においても、館に来て兵庫助を見た六郎は「愚人に向ひ詞はなしサアサア勝負」と兵庫助と争うが、このときも長蔵が六郎のあとをつけ様子を伺っていた。兵庫助と六郎が、筑波御前と湊に真相を打ち明けたとき、六郎は「この家にたどり着きしかど、あとより慕ふ不適の曲者」と述べ、また館に来た長蔵も「見え隠れに付けて来て、(六郎が)奥へ入ったをとっくりと見ておいた」といっており、ここでも兵庫助と六郎は長蔵が見ているのに気付き、それを欺くための芝居をしなければならなかった。兵庫助が旅に疲れた筑波御前と湊を追い返したのも、この二人が見れば友千代と呼ばれている子が本当は誰なのかがわかり、それが「もしや敵へ洩れんかと」するのを恐れたのである。そして上使として徳寿丸の首を受取りに来た竹沢監物は、兵庫助と六郎の仕込んだ身替りの計略に気付けず偽首を持ち帰り、筑波御前の事を知らせに走ろうとした長蔵は兵庫助に手裏剣で討たれる。 竹沢監物は自分が新田の味方だと偽って義岑に近づき、その兄義興も騙し最後は謀って殺してしまうが、由良兵庫助は敵に寝返った裏切り者だと人に思わせ、徳寿丸の命を救う。新田家の人々を騙した竹沢が、その元家臣である兵庫助に欺かれるという皮肉な展開である。六郎は兵庫助が疑われないようにと最後は自害して果てる。悪人と見えた人物がじつは…というのは義太夫浄瑠璃や歌舞伎ではよく見られるが、兵庫助が「善悪二つに引き分れし」というように、この「由良兵庫館」は「悪」を装う兵庫助だけではなく、「善」の南瀬六郎が主君の遺児を救うために心を砕き、犠牲となる悲劇も描いている。 なお兵庫助は「昔、唐土趙の国に程嬰杵臼といふ二人の臣下、主の孤(みなしご)を助けんと、敵を計りし故事を思ひ出して相談極め…」とも語っており、わが子と主君の子を取替えての身替りはこの「程嬰杵臼」の故事によるとしている。それは『史記』の「趙世家」を原拠とする話で、『史記』によればそのあらましは以下の通りである。 晋の景公に仕えた趙朔は、同じく景公に仕える屠岸賈に殺され、一族も皆殺しとなった。しかしそのとき趙朔の妻は身ごもっており、屠岸賈の手から逃れて男子を産み落とす。趙朔の食客公孫杵臼と趙朔の友人程嬰は、この趙朔の遺児を守るための計略を用いた。それは杵臼が趙朔の子ではない嬰児とともに山中に隠れ、やがて杵臼は山中から出てその嬰児を趙朔の子だと偽ったので、晋の将軍たちは兵を出して程嬰とともに杵臼を攻め、杵臼と嬰児は殺された。いっぽう本当の趙朔の子は程嬰が匿いともに山中に隠れたのである。それから十五年後、この趙朔の子は趙武と名乗って趙朔のあとを継ぎ、屠岸賈を滅ぼした。これを見た程嬰は、あの世の趙盾と杵臼に趙武のことを報告してくるといって自殺した。 ただしこの話は『太平記』や『曽我物語』にも引用されているが、杵臼が趙朔の遺児と偽った子は『史記』では「他人の嬰児」、すなわち縁もゆかりもない子とするのに対し、『太平記』巻第十八では杵臼の子とするなどの違いがあり、『曽我物語』では程嬰の子を主君の子と取替えたとする。大田南畝はその著書『奴凧』で、源内が用いたのは『曽我物語』で語られたものだろうと述べている。いずれにせよ『史記』そのままではない話が『神霊矢口渡』で使われており、由良兵庫助が程嬰、南瀬六郎が杵臼の役回りとなっているのである。 「由良兵庫館」は近年では昭和50年(1975年)5月に国立劇場の文楽公演で上演されており、歌舞伎では大正4年(1915年)歌舞伎座で初代中村吉右衛門が由良兵庫助を演じてのち上演が絶えていたが、平成27年(2015年)11月の国立劇場において現中村吉右衛門の由良兵庫助その他により、百年ぶりに復活上演されている。
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