「独立か死か」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 20:29 UTC 版)
「ペドロ1世 (ブラジル皇帝)」の記事における「「独立か死か」」の解説
服装においても、人との付き合いにおいても、ペドロは質素な人物であった。礼服を着る厳粛な場を除けば、彼の日頃の服装は白い綿のズボンに縞の綿の上着を着用し、つばの広い麦藁帽をかぶるか、よりフォーマルな場ではフロックコートを着用し、トップハットをかぶっていた。彼はよく路上で世の人の関心を知るために人々と会話をした。摂政になった当初、ペドロは個人と財産の権利を保障する布告を出した。彼は政府の支出と租税を削減した。不動産所有者は土地の没収から保護されており、市民は令状なしで逮捕されることもなくなったし、刑事手続きなしで拘束されることもなくなった。被疑者はもはや手続きなしで48時間以上勾留されなくなったし、弁護人を立てることができた。拷問、秘密裁判、非人道的な拘束もまた廃止となった。為替取引所で拘束された革命派でさえ釈放された。6月5日にポルトガルのジョルジェ・アヴィレス(ポルトガル語版)(のちのアヴィレス伯)中将指揮下の軍が、ペドロに発布された「ポルトガル憲法」の遵守を宣誓するのを要求して、反乱を起こした。彼は去る2月26日に、個人的に独り反乱軍に味方していた。彼は静かに、機略的に交渉し、軍の尊敬を勝ち取り、彼らのより容認しがたい要求の影響の軽減に成功した。反乱は、ペドロを単なる傀儡にし、アヴィレスに権力を移譲するためのほとんどあからさまなクーデターであった。王子は不満足な結果を受け入れたが、圧力に屈するのはこれが最後であった。 継続する危機は後戻りできない点まで到達した。このとき「コルテス」はリオデジャネイロ中央政府を解散させ、ペドロの帰還を命じた。これは、ブラジル人には「ポルトガル=ブラジル」は1815年以来植民地ではなく王国の地位にあったブラジルを、再びポルトガルに従属させる試みと感ぜられた。1822年1月9日、ペドロは彼にブラジルを離れないでほしいと嘆願する8千人の署名を含む請願を提示された。 彼は「それは万人の利となることで、国民全体の幸福のためであるから、私はよろこんでそれに従おう。私はここに留まると人々に告げよ」。アヴィレスは再び反乱をお起こし、ペドロにポルトガルに戻るように強要した。この時、王子は過去のポルトガル人による反乱に加わらなかった民兵隊と市民軍からなるブラジル軍を結集して迎え撃った。数で劣るアヴィレスは降伏し、彼の軍隊と一緒にブラジルから追放された。 次の数か月の間、ペドロはうわべだけでもポルトガルとの連帯を維持しようとつとめた。しかし最終的な決裂が迫った。有能な大臣ジョゼ・ボニファシオ・デ・アンドラダに助けられて、彼はリオデジャネイロの外に支援を求めた。王子は4月にミナス・ジェライスを旅し、8月にはサンパウロ州を訪れた。彼は両州で温かい歓迎を受け、その権威を強化した。サン・パウロから戻るさいに、彼は9月7日に送られた知らせを受け取った。「コルテスはブラジルの自治政府を受け入れず、この命令を破るものは皆罰する」と。 「ペドロは速やかな衝動から最も大胆な行動を避ける人物ではなく、彼は決断するのに手紙を読むのにかかる時間さえも要しなかった」とバーマンは書く 。ペドロは鹿毛の牝馬に跨り、従者と儀仗兵を前にペドロは言った。「友よ、ポルトガルのコルテスはわれらを隷従させ虐げようとしている。今日の日をもって、われらへの束縛は終わりだ。わが血にかけて、わが名誉にかけて、わが神にかけて、ブラジルに独立をもたらすことを誓う。ブラジル人よ、きょうのこの日より合言葉は『独立か死か!』だ!」
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