連合王国から独立帝国へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 09:39 UTC 版)
「ブラジル独立」の記事における「連合王国から独立帝国へ」の解説
ペドロは決起の忠誠を要請するためにサンパウロ州へ出発した。彼は8月25日にサンパウロ州の州都サンパウロに到着し、9月5日までとどまった。9月7日にリオデジャネイロに戻るとき、彼はボニファシオとマリア・レオポルディナからの手紙を受け取り、コルテスがボニファシオ内閣の全ての法律を破棄し、彼の保有していた全ての権限を剥奪したことを知った。ペドロは儀仗兵を含む随員のもとへ戻り、語った。 「友よ、ポルトガルのコルテスはわれらを再び奴隷にしようとしている。今日より、われらの関係は破れた。いまや何物にも縛られていはいない。」 ポルトガルの象徴である白と青の腕章を外し、そして続けた。 「兵士らよ腕章を外せ!独立万歳、自由とブラジルの分離独立万歳!」 彼は剣を抜き、叫んだ。 「わが血、わが栄光、わが神を、私はブラジルの自由に与えることを誓う。独立か死か!」。 これはサンパウロ近郊のイピランガの丘にて発せられたことから、「イピランガの叫び」の名でブラジル国民に記憶されている。1822年9月7日夜にサンパウロに到着すると、ペドロと随員はブラジルのポルトガルからの独立を公言した。王太子は盛大な祝賀を受け、ブラジル王、ブラジル皇帝と呼ばれた。ペドロはリオデジャネイロに9月14日に戻ると、数日後には自由主義派にパンフレット(ゴンサルヴェス・レドが書いた)をまいた。そこには王太子は「立憲皇帝」を称するべきであるという示唆があった。9月17日、リオデジャネイロ自治政府の首長ジョゼ・クレメンテ・ペレイラ(英語版)は他の自治政府に、10月12日の記念日にAcclamationが起きた知らせを送った。翌日には、新しい国旗と国章が制定された(詳細はブラジルの国旗参照)。 公式な分離独立は、ペドロが書いた書簡がジョアン6世に届いた1822年9月22日に発生した。書簡ではペドロはいまだ摂政王子を自称し、父王は独立したブラジルの王と考えられていた。1822年10月12日、サンタナの野(のちに「歓呼の野」として知られる)でペドロは「立憲皇帝、ブラジルの永遠の守護者ドン・ペドロ1世」を名乗った。これによりブラジル帝国におけるペドロの治世が始まった。しかし、皇帝はそれを明確にしていなかった。父王がブラジルに戻れば、彼は父を支持して帝位から退こうと考えていた。 「皇帝」の称号の理由は、王の称号はポルトガル王朝の伝統の継続を象徴的に意味している、あるいは絶対王政を恐れ、皇帝はそもそも古代ローマで民衆の歓呼を受けて即位したことから選ばれたとも言われる。1822年12月1日(この日はブラガンサ朝の最初の王ジョアン4世が戴冠した日である)、ペドロは戴冠し、聖別された。
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