連合時代~解体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 16:31 UTC 版)
「関西六大学野球連盟 (旧連盟)」の記事における「連合時代~解体」の解説
1962年 関六が近畿地区連盟配下の京滋大学野球連盟(以下、京滋連盟)・近畿大学野球連盟(以下、近畿連盟)・阪神大学野球連盟(以下、阪神連盟)と合併し、その関六を最上部とする関西大学野球連合が発足、入れ替え戦を導入。同年春に近畿大学(近畿連盟)が関六に昇格し、入れ替わりに神戸大学が関六から近畿連盟降格。同年秋に大阪商業大学(阪神連盟)が関六に昇格し、京都大学が京滋連盟に降格。なお入れ替え戦は2戦先勝方式(※1)とし、下部3連盟首位決定戦(入れ替え戦出場校決定戦)は3校間での1回戦制の巴戦を行い2勝したチームが入れ替え戦に出場する。(※2) 1963年 春季に龍谷大学(京滋連盟)関六に昇格(※4)し、大阪商業大学が阪神連盟に降格。同年秋に関西大学が優勝するが、エースのプロ球団との契約が発覚し、規定違反で優勝取り消し。またリーグ戦の1年間の出場停止の処分。(※5) 1967年 春季に大阪商業大学(阪神連盟)が関六に昇格し、立命館大学が京滋連盟に降格。同年秋に立命館大学(京滋連盟)が上関六に昇格し、大阪商業大学が阪神連盟に降格。 1968年 春季に大阪商業大学(阪神連盟)が関六に昇格し、立命館大学が下部の京滋連盟に降格。秋季に立命館大学(京滋連盟)が関六に昇格し、関西学院大学が近畿連盟に降格。 1969年 春季に関西学院大学(近畿連盟)が関六に昇格し、立命館大学が京滋連盟に降格。 1970年 秋季に大阪学院大学(阪神連盟)が関六に昇格し、大阪商業大学が阪神連盟に降格。また同年秋に第1回明治神宮野球大会を実施。関西大学が関西大学野球連合代表として出場。 1971年 秋季に大阪商業大学(阪神連盟)が関六に昇格し、龍谷大学が京滋連盟に降格。 1973年 春季に京都産業大学(京滋連盟)が関六に昇格し、関西学院大学が近畿連盟に降格。 1974年 春季に立命館大学(京滋連盟)が上部の関六に昇格し、京都産業大学が京滋連盟に降格。秋季に神戸学院大学(下部阪神連盟)が関六に昇格し、大阪学院大学が阪神連盟に降格。 1980年 春季に大阪経済大学(近畿連盟)が関六に昇格し、神戸学院大学が阪神連盟に降格。なお同年春季から下部3連盟首位決定戦も勝ち点制(※3)を導入。なお、大阪経済大学は初昇格の秋季には初昇格即初優勝するが、翌年春季には一転最下位となり、その後の入れ替え戦にも破れる。 1981年 春季に関西学院大学(近畿連盟)が関六に昇格し、大阪経済大学が近畿連盟に降格。秋季に京都産業大学(京滋連盟)が関六に昇格し、立命館大学は京滋連盟に降格。 1982年 入れ替え戦廃止に伴い関西大学野球連合が解体。関六から関西大学、関西学院大学、近畿大学が脱退。これによるリーグ解散宣言により同志社大学も追従。それまで下部であった京滋連盟の京都大学と立命館大学を招聘して新リーグを設立。残った大阪商業大学と京都産業大学は、連盟維持を宣言し過去に関六に昇格経験のある大学の中から、それぞれ下部であった近畿連盟の大阪経済大学、京滋連盟の龍谷大学、阪神連盟の大阪学院大学と神戸学院大学を招聘し「関西六大学野球連盟」の名称を冠したリーグの継承を宣言。双方のグループから同様の招聘を受けていた神戸大学は近畿連盟への残留を表明。新たに編成された関六グループは同時に連合の再結成を求めたが、下部3連盟がこれを一時保留の形で拒否したため、結果として単独で新関六を発足。これにより旧下部であった京滋大学野球連盟・近畿大学野球連盟・阪神大学野球連盟はそれぞれに独立。新リーグはこの段階で関西六大学リーグの名称継承を断念し、関西学生野球連盟と名乗った。この一連の騒動を静観していた全日本大学野球連盟は主催の全日本大学野球選手権大会の出場枠は、一時的な措置として連合時代を踏襲する形で関西地区5連盟で1枠とした。(翌年からは2枠に変更)また秋季の明治神宮野球大会については春の全日本大学野球選手権大会の関西地区代表決定戦優勝校を出した連盟の秋季リーグ優勝校がそのまま出場する暫定措置となった(1984年まで3年間継続)。 ※1:2戦先勝方式 同一の対戦校に対して先に2勝したチームがその相手校との対戦に勝利したとして対戦を終了する(1勝1敗の場合は第3戦を行い決着を付ける。)。 ※2:3校が1勝1敗で並んだ場合は3校間でのトーナメントを行う。組み合わせは抽選。 ※3:勝ち点制 同一対戦校に勝ち越した場合に勝ち点1を獲得し、勝ち点が多い方が上位。勝ち点が同じ場合は全体の勝率比較によって順位を決定。勝ち点も勝率も同じ場合は1回戦の決定戦を行なうが、3校が同じ場合は、※2の方法で決定。 ※4:入れ替え戦中の龍谷大学応援団による暴行事件発生で同年秋のリーグ戦は出場辞退。自動的に最下位で入れ替え戦に出場。 ※5:未出場だったのは1964年の春季リーグ戦のみで春季リーグ戦後の入れ替え戦には出場して残留を決定し、同年秋のリーグ戦には出場していることから、違反発覚が1963年秋の入れ替え戦も終了後でもあることから最下位扱いではなく単なる優勝取り消しであり、また出場停止処分の開始時期は発覚時期ではなく1963年秋季のリーグ戦開始時期まで遡っての処分とされ、なおかつ、入れ替え戦は公式戦ではあってもリーグ戦ではないとの解釈から、1964年春季は自動的に最下位にはなったものの入れ替え戦には出場できた(残留決定した)ものと思われる。
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