建仁寺
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境内
- 法堂(京都府指定有形文化財) - 仏殿(本尊を安置する堂)と法堂(はっとう、講堂にあたる)を兼ねている当寺の本堂。明和2年(1765年)再建。また、2002年(平成14年)創建800年を記念して天井に小泉淳作により「双龍図」が描かれた。方丈と渡り廊下で繋がっている。
- 庫裏(京都府指定有形文化財) - 本坊。文化11年(1814年)再建。
- 方丈(重要文化財) - 長享元年(1487年)の建立で、もと安芸国の安国寺にあり、安国寺恵瓊が慶長4年(1599年)に建仁寺に移築したもの。東側に設けられた大玄関を介して本坊と連結する。創建当初は杮葺であったが元文元年(1736年)に瓦葺きに改められた。建物の外周すべてに建具が入り壁が少ない構造のためか、1934年(昭和9年)の室戸台風で倒壊し、1940年(昭和15年)に創建当初の杮葺で復旧された。その後1962年(昭和37年)に銅板葺きに改められていたが、2013年(平成25年)に杮葺に復した。各室には桃山時代の画壇を代表する画家の一人である海北友松の水墨障壁画があったが、現在は襖から掛軸に改装され、京都国立博物館に寄託されている。台風被害の復旧後は、日本画家橋本関雪による障壁画『生生流転』(しょうじょうるてん)『伯楽』『深秋』『蕭條』『松韻(寒山子)』(計60面、1940年完成)が設置されている[3]。
- 方丈前庭「大雄苑」 - 枯山水庭園。1940年(昭和15年)の作庭。
- 織田信長供養塔 - 七重石塔。織田有楽斎が建立した。元は十三重石塔。
- 庭園「〇△□乃庭」 - 2006年(平成18年)北山安夫による作庭。
- 小書院
- 庭園「潮音庭」
- 大書院
- 冨春閣
- 安国寺恵瓊の墓
- 納骨堂
- 茶室「東陽坊」 - 天正15年(1587年)に行われた北野大茶会の際に千利休の高弟・真如堂東陽坊長盛が好んだと伝えられる茶室。二畳台目下座床の席。構成・意匠ともに薮内家の燕庵に共通する点が多く見られる。1892年(明治25年)に当寺境内に移され、大正年間(1912年 - 1926年)に現在地に移築された。
- 清凉軒
- 向唐門(京都府指定有形文化財) - 寛文年間(1661年 - 1673年)建立。
- 西の鐘楼(小鐘楼、京都府指定有形文化財) - 寛文12年(1672年)建立。
- 東の鐘楼(大鐘楼、京都府指定有形文化財) - 元和8年(1622年)再建。梵鐘は「陀羅尼の鐘」と呼ばれる。元は河原院にあったものとされる。
- 北門(京都府指定有形文化財) - 寛永年間(1624年 - 1645年)再建。
- 西門(総門、京都府指定有形文化財) - 文化年間(1804年 - 1818年)再建。
- 平成の茶園
- 開山堂 - 開山塔ともいう。開山栄西禅師の墓所。旧名を護国院、古くは興禅護国院と呼ばれていた。1884年(明治17年)再建。中には入定塔があり栄西禅師の木像が奉安されている。
- 洗鉢池
- 明星殿(楽神廟、楽大明神、京都府指定有形文化財) - 吉備津神社の末社である「楽の社」の神を楽大明神として祀る。江戸時代前期の建立。虚空蔵菩薩を本地仏とする。縁日は11月13日。
- 浴室(京都府指定有形文化財) - 寛永5年(1628年)三江紹益によって建立された。2002年(平成14年)に現在地に移される。湯気で身体を温める蒸し風呂である[5]。
- 霊洞院(れいとういん) - 建仁寺の僧堂(専門道場)。元は建仁寺26世の慈照高山(法燈派)を追請開山とする塔頭で、弟子の海雲禅慧らが創建した。左辺亭竹田黙雷の時に禅堂が創建された。天文21年(1552年)に焼失し、天文23年(1554年)に再建された。その後嘉永6年(1853年)に改築される。
- 三門 - 「望闕楼」(ぼうけつろう)の別称がある。静岡県浜松市(旧浜名郡雄踏町)の安寧寺から1923年(大正12年)に移築したもので、江戸時代末期の建築である。
- 放生池
- 勅使門(重要文化財) - 寺の南側正面、八坂通に面した四脚門。平教盛もしくは平重盛の館門を応仁の乱後に移築したものと伝えるが定かでない。様式的には鎌倉時代末頃の建築である。柱や扉に矢が刺さった痕跡があり、「矢の根門」「矢立門」とも呼ばれる。
塔頭
明治時代の廃仏毀釈により多くの塔頭が失われ、現在は14院が残る。
- 正伝永源院(しょうでんえいげんいん) - 建仁寺の真北に位置する。前身は正伝院・永源庵であり、かつては別個の塔頭であった。
- 常光院(じょうこういん) - 温中宗純を開山とする。温中宗純は妙心寺派の禅僧である。慶長9年(1604年)に豊臣秀吉の親族である木下家定が中興した。1872年(明治5年)に替え地を得て、現地に移建される。
- 木下家定の墓。
- 清住院(せいじゅういん) - 蘭洲良芳の塔頭で、蘭州は永和4年(1378年)に54世として建仁寺に住持した。足利義満から厚い信頼を受けた五山文学僧である。1873年(明治6年)に花見小路通から現地に移る[6]。
- 興雲庵(こううんあん) - 陀枳尼尊天(だきにそんてん)が興雲庵の鎮守稲荷として祀られている。
- 堆雲軒(たいうんけん) - 正平元年(1346年)霊洞院の正中西堂禅師の建立による塔頭。
- 久昌院(きゅうしょういん) - 建仁寺境内の西側に位置する。慶長13年(1608年)に前加納藩主であった奥平信昌が三江紹益を開山に迎えて創建した奥平氏の菩提寺で、九昌院の名前は信昌の法号から名付けられたといわれている。
- 禅居庵(ぜんきょあん) - 開山は元僧である大鑑禅師(清拙正澄 1274年 - 1339年)。境内の中には摩利支天堂がある。境内には狛犬ではなく狛猪がある。
- 大中院(だいちゅういん) - 建仁寺北門前の花見小路通の南端東側に位置している。大中院は東海竺源(1270年 - 1344年)が開山である。何度も戦乱と大火により焼失するが、復興を繰り返した。方丈は南面し、雪窓和尚が再建した当時の遺構といわれている。方丈の室中正面には、後光厳天皇筆の扁額「勅諡安威禅師」が掲げられ、本尊白衣観世音菩薩立像が安置されている。
- 西来院(せいらいいん) - 開山は宋から来た蘭渓道隆(らんけい どうりゅう、1218年 - 1278年)である。北条時頼の招聘で蘭渓道隆は鎌倉にある建長寺の開山となった名僧であり、大覚禅師といわれ日本で禅師号を与えられた最初の禅僧でもある。そして兀庵普寧(ごったん ふねい)の来日を機に、蘭渓道隆は弘長2年(1262年)建仁寺11世住持に迎えられ、塔頭西来院の開山となった。西来院の本堂は内陣中央正面に、大覚禅師の等身木造坐像を安置している。
- 両足院(りょうそくいん) - 開山は建仁寺35世龍山徳見とする[7]。もとは知足院といい、その寮舎であった也足軒と合併し両足院となったともいう。戦国武将、黒田長政に所縁の塔頭で、元は鞍馬にあった毘沙門天像を兜の中に入れ、関ヶ原の戦いで活躍したとのいわれがあり、明治時代に黒田侯爵家から像が寄進され、毘沙門天堂に祀られた。両足院は南宋の僧、林浄因が饅頭の文化を日本に伝えた寺とされ、饅頭始祖の寺としても知られている。他にも織田有楽斎好みの茶室「水月亭」や「臨池亭」がある[8]。
- 大統院(だいとういん) - 建仁寺境内の南東の端に位置する。夢窓疎石の法嗣である、青山慈永(1302年 - 1369年)を開山として観応3年(1352年)に創建された寺院。本尊は聖観音である。
- 霊源院(れいげんいん)
- 六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ) - 境外塔頭。
注釈
- ^ 相伴客の捧げる天目碗に、僧侶が立ったまま浄瓶の湯を注ぎ、右手の茶筅で茶を点てる。『別冊太陽 栄西と臨済禅 禅宗寺院の古式茶礼を伝える』禅文化研究所監修 平凡社発行 2014年 p53-55
出典
- ^ 京都府歴史遺産研究会編『京都府の歴史散歩中』山川出版社、2011年、p.136
- ^ 京都でも多数が校舎の下敷きに『大阪毎日新聞』昭和9年9月21日号外(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p228 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 「関雪年表」(白沙村荘 橋本関雪記念館公式サイト)
- ^ 華蔵界 第37号 臨済宗建仁寺派宗務本院発行 2013年3月
- ^ 『臨済宗大本山 建仁寺』2016年パンフレット
- ^ 『京都の禅寺散歩』竹貫元勝 雄山閣出版 1994年7月発行
- ^ 京都府歴史遺産研究会編『京都府の歴史散歩 中』山川出版社、2011年、p.137
- ^ 佐和隆研ほか編『京都大事典』淡交社、1984年、p.981
- ^ 特別展 栄西と建仁寺(東京国立博物館・読売新聞社・NHK・NHKプロモーション 2014)
- ^ 平成29年9月15日文部科学省告示第117号
- ^ 国宝・重要文化財の指定について(文化庁サイト)
- ^ 京都府指定・登録文化財
- ^ 四頭茶会案内パンフレット 大本山建仁寺発行 2014年
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