建仁の乱と最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 16:07 UTC 版)
奥州合戦から12年後の正治3年(1201年)、城長茂らが幕府転覆を図った建仁の乱においては、謀叛の一味に加わり京に潜入する。長茂の決起が失敗すると、一味からの離脱を図り、亡父・秀衡と親交があった藤原範季の邸宅に逃げ込むが、結局仲間によって連れ戻され、最後は幕府の追っ手によって討ち取られた。高衡が討たれたことを聞いた範季は嘆息したという。没年齢については正確には不明だが、三兄・忠衡の生年(1167年)と没年齢(1189年で23歳)を考えると、それ以降の誕生と考えられるため、30歳前後で没したのではないかとの推測ができる。
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