建仁僧堂掛塔から臨済宗東福寺派串本無量寺の住職時代まで
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1942年(昭和17年) 9月建仁僧堂に掛塔、竹田頴川に就き参禅弁道するが、1943年 (昭和18年) 8月には兵役応召の為、建仁僧堂を暫暇した。そして1945年 (昭和20年) 2月に帰錫。そしてこの頃には四大不調となって、療養中であった師匠の竹田頴川の看護に専念した。そしてその後も修学院禅華院に疎開して、一人で師匠の看護に励んだ。同年9月9日、竹田頴川遷化した後は、潁川の法嗣である竹田益州に引き続き就き参禅を続けることとなった。1954年 (昭和29年) には竹田益州について、インドを巡錫。そして1955年(昭和30年) 4月には、ついに竹田益州から嗣法。翌月の5月には和歌山県串本町にある臨済宗東福寺派の名刹無量寺の住職となる。その後、1961年 (昭和36年) 11月には円山応挙に所縁のある串本応挙芦雪館を建設した。
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