竹田頴川とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 竹田頴川の意味・解説 

竹田頴川

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/13 02:00 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

竹田 頴川(たけだ えいせん、1878年(明治11年)- 1945年(昭和20年)9月9日)は、大正から昭和の終戦までを代表する臨済宗の禅僧。俗姓は最初は加藤で、のち竹田。法諱は恵恂、道号は頴川。室号は古渡庵。愛知県葉栗郡北方村の出身。臨済宗建仁寺派管長(1931年-1945年)

生涯

1878年(明治11年)、現在の愛知県一宮市北方町に生まれる。1889年(明治22年)、一宮市木曽川町の寶光寺の速水精道和尚について得度。1906年(明治39年)、竹田黙雷が開単した建仁僧堂に掛搭。その後僧堂師家兼管長の黙雷に7年参禅した後、1912年(大正1年)に、頴川が得度した寶光寺の住職となった。そしてその後も黙雷の建仁僧堂に通参精進して遂に、1921年(大正10年)竹田黙雷より嗣法する。[1] 1928年(昭和3年)には建仁僧堂師家となった。そして1930年(昭和5年)には師の黙雷が遷化したため、頴川は1931年(昭和6年)臨済宗建仁寺派管長にも就任。その翌年の1932年(昭和7年)には、弟子の竹田益州が建仁僧堂を再暫暇するのであったが、その後1933年(昭和33年)に、頴川の法嗣となったことにより、建仁僧堂師家は血の繋がりはないものの養子となって、俗名として竹田姓が黙雷、頴川、益州と三代続くこととなるのである。(但し管長は頴川と益州の間に中村泰祐管長が入る事となる)そして竹田頴川は1945年(昭和20年)9月9日に遷化。世寿68。

法嗣弟子

著書

脚注

  1. ^ 『昭和・平成 禅僧伝』臨済会編、春秋社、2010年。

関係先リンク

参考

先代:
竹田黙雷
臨済宗建仁寺派管長
1931-1945
次代:
中村泰祐
先代:
竹田黙雷
臨済宗建仁寺派建仁僧堂師家
1928-1945
次代:
竹田益州



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「竹田頴川」の関連用語

竹田頴川のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



竹田頴川のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの竹田頴川 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS