北陸鉄道金沢市内線 歴史

北陸鉄道金沢市内線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 16:55 UTC 版)

歴史

第1期線開業

金沢市に路面電車を敷設する計画は1905年(明治38年)ごろからいくつか浮上したが、軌道敷設特許取得まで進んだものは1911年(明治44年)に立案された「北陸電気軌道」の計画である[3]。発起人は1912年(明治45年)6月28日に特許を得たが[4]、発起人の交代や中心人物の入れ替わりがあり会社設立までに時間を要し[3]、4年後の1916年(大正5年)10月29日、ようやく「金沢電気軌道株式会社」として会社設立に至った[4]。筆頭株主の旧加賀藩前田侯爵家前田利為をはじめ旧藩関係者が多く出資しており、社長にも旧藩家老の家の出である本多政以が就いた[4]

会社発足当時、金沢市内の道路は江戸時代からほとんど変わっておらず旧態依然としたものであった[5]。そこで市街電車の敷設とともに市区改正・道路拡張を行うこととなり、金沢電気軌道・石川県・金沢市3者の費用負担により金沢市が工事を執行するという事業が纏められた[5]犀川浅野川に挟まれた中心市街地の道路が第1期工事として施工され、1917年度(大正6年度)から1919年度(大正8年度)にかけて主要道路の幅員が8(約14.55メートル)に拡張された[5]

第1期線開業時の路線図。第1期線のほか未開業の第2期線予定線も記載。

電車敷設にあたり、金沢電気軌道では本社・車庫用地として上胡桃町(現・小将町)の金沢地方裁判所跡地を買収した[6]。道路拡張に続く軌道敷設工事は会社の担当であり[5]、まず第1期線として以下の区間の建設が決まった[7]

このうち金沢駅前停留場から武蔵ヶ辻・橋場町を経て兼六園下停留場(開業時「兼六公園下」[8])へ至る区間が先行着工され、1919年(大正8年)2月2日より営業を開始する[6]。次いで同年7月13日に第1期線全線開通に至り[6]、橋場町から浅野川大橋停留場まで[8]、兼六園下から小立野停留場(開業時「金沢病院前」[8])まで、兼六園下から香林坊停留場まで、武蔵ヶ辻から香林坊経由で犀川大橋停留場までの区間が開業した[6]

この第1期線全線開業にあわせて4日間、車体に大量の電球を取り付けた5台の花電車が祝賀運転され、15日には公会堂にて竣工式典が挙行された[6]

第2期線開業

第1期線に続く市内線第2期線予定線は以下の5区間からなっていた[9]

  • 武蔵ヶ辻 - 金沢駅前間の白銀町停留場から金石電気鉄道起点のある長田町[注釈 1]まで
  • 浅野川大橋停留場(大橋南詰)から山ノ上町を経て下大樋町まで
  • 金沢病院前停留場から先、上石引町地内を延伸
  • 犀川大橋停留場(大橋北詰)から松金電車鉄道起点のある野町5丁目を経て有松町まで
  • 野町で分岐して野田寺町1丁目まで

上記のうち長田町・下大樋町・有松町はそれぞれ当時の金沢市域の西端・北端・南端である[10]。金沢電気軌道では資金調達の都合から、第2期線全線着工を見送って2つの郊外線との連絡線を先に建設する方針を固める[11]。同時に郊外線の自社経営を目指して会社合併を目指したが、金石電気鉄道の合併は破談、一方で松金電車鉄道の合併は1919年12月に決定された[11]。従って金石連絡線の着工は延期となった[11]。第2期線全線着工見送りの会社方針について、金沢市会では反対する意見が出たものの、市の側も電車敷設に伴う市区改正費用を全線分捻出するのは困難であった[11]。結局、市財政を踏まえて犀川以南では野町までの野町線(松金連絡線)と兵営の関係から野田寺町線を、浅野川以北では大樋線のうち山ノ上町までの区間を優先的に着工する方針が決定され、1920年度から市の市区改正事業が始まった[11]

1937年時点の金沢電気軌道市内線路線図

第2期線はまず野町線が1920年(大正9年)11月20日に開業した[11][12]。終点は松任に繋がる松金線の起点野町5丁目[13]。野町線開業を機に松金線の車両は市内線との共用とされ、市内線香林坊停留場から松金線までの直通運転も始まった[14]。運賃上の市内線・松金線分界点は当初松金線泉停留場とされた[14]。その後1934年(昭和9年)に石川線野町駅前に野町駅前停留場が新設されるとともに駅前までの区間が複線化され、野町駅前までが市内線となった[14]

野町線に続く開業は野田寺町線で[11]、翌1921年(大正9年)7月10日に野町広小路停留場から寺町停留場(開業時「野村兵営前」[8])までが開通する[12]。次いで大樋線南部が建設され[11]1922年(大正11年)7月13日に浅野川大橋停留場から小坂神社前停留場までが開通[12]、同年12月14日には浅野川大橋上が繋がって、橋場町 - 小坂神社前間が全線開通した[8]。だがこの直前の同年8月3日、豪雨で線路を通していた犀川大橋が流出してしまう[15]。電車専用の仮橋を架設して運行を続けたが、犀川大橋が復旧するのは2年後の1924年(大正13年)7月10日のことである[15]

金沢電気軌道による市内線建設は1922年をもって停止し、野町以南・大樋線北部・金石連絡線は建設されなかった[11]。これらの区間、すなわち野町5丁目 - 有松町間、山ノ上町3丁目 - 下大樋町間、白銀町 - 長田町間は期限内に工事施工認可を申請しなかったとして1926年(大正15年)4月7日付で特許失効となっている[16]。また同じく特許を得ていた上石引町地内の延伸についても1929年(昭和4年)12月7日に起業廃止が許可された[17]

金沢電気軌道時代の経営

金沢電気軌道は市内線第2期線建設と並行して郊外進出を推進しており、1920年3月にまず松金電車鉄道を合併し松任までの松金線を取得、次いで1922年10月に金沢市内と北陸本線西金沢駅を結ぶ路線(金野線→石川線)も整備した[18]。さらに翌1923年5月には西金沢駅から先鶴来までを結ぶ石川線を石川鉄道から買収している[18]。その後1926年(大正15年)5月、金沢駅前と浅野川下流地域を結ぶ浅野川電気鉄道(後の北陸鉄道浅野川線)が開通、市内線と連絡した[19]。郊外線では金石町方面へ至る金石電気鉄道(後の北陸鉄道金石線)が唯一市内線から離れて立地していたが、1926年10月から白銀町と起点中橋駅を結ぶ路線バスの運行が開始され間接的に市内線との連絡を果たした[20]

市内線の乗車人員は開業以来毎年増加し、1925年(大正14年)には年間1532万人・1日平均約4万2000人となった[21]。その後1930年までの5年間は1日平均4万人前後で推移する[22]。この間、乗客増加で車掌の車内検札が難しくなったことから値下げによる不況対策も兼ねて1927年(昭和2年)2月に均一運賃を導入している[15]。1935年までの5年間では乗車人員は1日平均4万人に毎年達しておらず、特に1933年(昭和8年)は年間1284万人・1日平均約3万5000人にまで落ち込んだ[23]。これは当時の不況の影響を受けたもので、線路や車両など施設の更新期が重なって電車収入だけでは配当ができないほどの経営不振に追い込まれた[15]。ただ不況は他の業界も同様であり、造船不況の渦中にあった藤永田造船所に半鋼製車両の価格を見積もらせたところ1両7000円と予想より安くなったため車両購入を決定した[15]。これにより定期的な車体締め直しが必要な木造車両を一部半鋼製車両に置換えた[15]

1931年(昭和6年)12月、金沢電気軌道は兼営の路線バス事業を開始した[24]。最初の路線は金沢駅前と市外の寺井(現・能美市)を結ぶだけであったが、半年後の1932年(昭和7年)4月より金沢市内路線を開設、以後毎年のように市内バス路線を拡充していった[24]。ただしそれでも市内交通の主力は路面電車(市内線)であり、バスは電車を補助する程度の存在に留まっていた[25]。なお1935年の時点では兼営市内バスの年間乗客数は235万人(1日平均約6400人)であった[26]

北陸鉄道発足と延伸

金沢電気軌道は1932年に高岡電灯社長菅野伝右衛門が社長に就任したのが示すように、1930年代には富山県高岡市の電力会社高岡電灯の傘下に入っていた[27]。また1921年より兼営の電気供給事業を手掛けていたが[27]、この事業は1930年代後半にかけて徐々に大型化した[28]日中戦争が深刻化した1940年代に入ると、北陸の電力業界では富山県の日本海電気の主唱で電気事業統合が急速に具体化され、翌1941年(昭和16年)には日本海電気・高岡電灯のほか金沢電気軌道をも含む計12社の合併が取りまとめられた[29]。そして1941年8月1日、12社の新設合併により新会社北陸合同電気が成立、金沢電気軌道を含む旧会社は解散した[29]

この再編により金沢市内線を含む旧金沢電気軌道の鉄軌道・路線バス事業は北陸合同電気に引き継がれるが[30]配電統制令によって北陸合同電気は翌1942年(昭和17年)4月1日付で国策配電会社北陸配電に吸収された[31]。このとき付帯事業を北陸配電に持ち込まないようにするため、設立と同日付で交通部門資産の現物出資により新会社・(旧)北陸鉄道株式会社が立ち上げられた[30]。その後富山地方鉄道発足に刺激され石川県内でも交通事業の戦時統合を目指す動きが促進され、(旧)北陸鉄道を含む石川県下の交通事業者7社の合併が実現、1943年(昭和18年)10月13日に現在の北陸鉄道が発足した[32]。郊外線の金石電気鉄道もこの合併に参加し、浅野川電気鉄道も遅れて1945年(昭和20年)10月に合併されている[32]

北陸鉄道発足当時は太平洋戦争下であったことから、出征した男子従業員に替わって18歳前後の女性で構成される女子勤労報国隊が市内線にも配属され、車掌業務、次いで運転士業務を受け持つようになった[33]1944年(昭和19年)になると軍港所在地呉市広島県)を走る呉市電へ木造車3両の譲渡を強制され、また金属製のブレーキシューの配給が細りセメント木材など代用品利用を余儀なくされた[33]。同年10月1日にはラッシュ時対策として10か所の停留場が廃止された[34]

1944年4月18日、北陸鉄道に対し金沢市白銀町 - 木ノ新保(金沢駅前)間0.82キロメートルならびに山ノ上町3丁目 - 小坂町間1.7キロメートルの軌道敷設の特許が下りた[35]。前者は金沢駅への輸送強化のための路線で、翌1945年(昭和20年)5月17日付で白銀町停留場から六枚町停留場経由で金沢駅前停留場へ至る区間が開業、金沢駅前のループ線が出現した(既設白銀町 - 金沢駅前間は単線化)[33]。後者は東金沢駅周辺に位置する軍需工場への通勤輸送強化を目的とした路線で、ループ線開通と同日付でまず南半分、小坂神社前停留場から鳴和停留場までの区間が開通した[33]。これら新線に資材を供出するため1944年11月に松金線野町駅前 - 野々市間が廃止されている[14]。この部分廃線に伴い1920年より行われていた市内線・松金線直通運転は野町 - 野々市間を石川線に振り替えて継続されたが、1945年8月に取り止められた[14]

1945年の終戦直前の時期には福井市富山市空襲が激化し、次は金沢市が対象となるとの噂が広まったため、市内線は毎晩20時で運転を打ち切り、車両を車庫から出して分散疎開させる措置が採られた[33]。ただし実際には直接的な空襲被害を受けることはなかった[36]

戦後の動向

終戦後の1945年12月1日、鳴和停留場から東金沢駅前停留場までの延伸が完成する[33]。終戦直後は片町通りに形成された闇市への買出し客が多く市内線を利用した[36]。また不足が発生したため10月より浅野川線粟ヶ崎海岸から市内線兼六園下まで海水運搬電車を運転し、海水を市民に販売して好評を得た[36]。市内線輸送のピークは終戦間もない1947年度(昭和22年度)に出現し、年間3900万人・1日平均10万6000人の利用があった[37]

戦時中の酷使で荒廃した諸施設の整備が始まったばかりの1949年(昭和24年)7月20日、電車車庫・工場が焼失するという火災が発生した[38]。火災の復旧とあわせて施設の改善が急ピッチで進められ、市内線初となるボギー車運転開始(1949年11月22日)、集電装置ビューゲル化(1950年4月)、上胡桃町変電所の新設(1951年9月)が相次いで実施された[38]。このうちボギー車は1950年3月までに10両が導入され、翌1951年4月には12両も増備されている[38]。一方、金石線と市内線の連絡線新設は計画されたものの、当時拡大されつつあった路線バスで補われたため実現せずに終わった[38]

下記#運賃の推移にて詳述するように、戦後昭和20年代はインフレーションにあわせて運賃の値上げが相次いだが、1955年(昭和30年)12月に3円の値上げ(10円から13円均一へ)を実施する際には金沢市議会の反対に遭い、市民団体による阻止活動も展開されて政治問題と化した[39]。最終的には軌道改修を進めるという条件で金沢市議会の承認を得た[39]

1950年代は路線バスの拡充が進んだ時代であり、金沢市周辺では1955年に松金線代替バス運行開始を機に金沢 - 松任 - 小松間が増発され、特に金沢市南西部の有松までの間はラッシュ時5分間隔という電車並みの運行となった[40]。この有松については市内線を野町から延伸する計画が1955年(昭和30年)4月の社内計画委員会にて答申されたが実現していない[41]。バス関連の施設整備も進められ、1952年(昭和27年)2月には金沢駅前にバスターミナルが開設されている[42]

道路混雑の激化と採算悪化

北陸鉄道社内全体では、1958年度(昭和33年度)上期にバス事業収入が鉄軌道事業収入を上回るようになり、乗車人員も1961年度(昭和36年度)下期にバスが鉄軌道線を越え、会社の主力事業がバスに切り替わった[40]。この時期、路線網についてもバスが拡充され続ける中で、鉄軌道線は乗客減と道路整備の都合から1955年に松金線が廃止となり[39]、次いで県南部の粟津線も道路整備のため1962年(昭和37年)に廃止され、徐々にバス転換が進みつつあった[43]

鉄軌道事業の退勢傾向の中で、金沢市内線についても1947年度に年間乗車人員の最高記録を記録したが5年後の1952年度には年間2800万人に減少した[44]。その後1961年度まで年間2700万人台を維持したが1962年度以降大きく減少、1964年度は年間2302万人(1日平均約6万3000人)に低迷した[45]。一方、同年度の北陸鉄道路線バス市内線の乗車人員は3277万人であり、金沢市内でも電車よりバスが主力となっていた[46]。当時(昭和30年代以降)の高度経済成長に伴い、第二次第三次産業従業者の増加、高等学校進学率の増加、そして人口自体の増加によって通勤・通学需要が増大していた[47]。しかしながら人口増加は三馬地区・米丸地区をはじめとする旧市域外の新しい住居地区が中心であり[47]、そうした近郊地域に新路線を続々と開設した市内バスが利用を増やし、限られた市街地域を走る市内電車に替わって市内交通の主役になったのである[46]

市内線を取り巻く環境の変化には、もう一つ自動車交通の増加もあった。金沢市における自動車保有台数は1960年代に大きく増加し、1964年には5年前の2.6倍、3万7000台に達している[47]。台数増に伴い一般家庭の通勤・行楽や中小企業の業務交通を主体とする自動車交通量が急増する[47]。その一方で、金沢市は戦災を経験しなかったことから戦災都市に比べて道路の拡張が著しく遅れていた[48]。市では戦前の1930年に道路網の改良計画をまとめていたが、事業は戦前のうちに完成せず[49]、戦後も容易に進展しなかった[48]。従って戦災都市で幅員の広い道路が建設されていく中にあっても、金沢市では多くの幹線道路が大正時代に路面電車が敷設されたときのままで、広くても幅員は18メートルに過ぎなかった[48]。その状態で交通量が急増したことから、狭い道路に自動車が集中し[47]、市内交通は麻痺状態に陥った[50]。一例として、1965年(昭和40年)10月の調査によると、中心部片町の交通量は道路構造令に定められた自動車交通容量の3倍に達しており、極端な低速運転を強いられる状態にあった[50]

道路交通量の増加は電車の運行速度低下に繋がった[51]。一例として、金沢駅前 - 小立野間(1系統)の4.1キロメートルをバスは14分で運行するところ電車では22分も要した[51]。速度低下による運行費用増加に高度経済成長に伴う人件費増加が重なって、市内線の収支は赤字に転落し、その赤字幅が拡大し続けていく[51]。赤字転落は1960年度のことで、前年度の224万円の黒字から1935万円の赤字となった[45]。1963年1月の「三八豪雪」では市内線は1月23日から2月12日まで3週間にわたって運休して多額の損害を受け[44]、この1962年度には9526万円の赤字が生じる[45]。採算悪化を受けて金沢市議会の同意を得て1963年12月8年ぶりに運賃値上げ(15円に)に踏み切ったものの[52]、翌1964年度の赤字額は1億1150万円に達した[45]。北陸鉄道全体で見ても昭和30年代から赤字が慢性化しており、同年度の赤字額は3億9329万円にのぼっていた[51]

兼六坂暴走事故

1965年(昭和40年)6月24日ブレーキ故障が原因で電車が急な下り坂を暴走し脱線・転覆するという事故が発生した[53]。事故現場は兼六園脇の兼六坂(尻垂坂)[注釈 2][53]。小立野発野町駅前行きとして半鋼製単車モハ300形309が運行中のところ、兼六坂上の出羽町停留場を発車後、ブレーキロッドの折損が発生した[54]。運転士の下車点検中、坂上に停車していた電車が乗客を乗せたまま動き出してしまったため、運転士は持っていたブレーキハンドルを手歯止めにして停車させようとしたが失敗[54]。レバー不携帯のまま電車に戻ったが急坂を下る電車を止めることができず[54]、電車は坂下の兼六園下停留場の分岐器に引っ掛かり脱線、その勢いのまま30メートル走って横転した[53]

事故発生が15時50分であったことから乗客には下校中の中学生が多かった[53]。事故で乗客23人と乗務員2人が重軽傷を負い、うち当日夜に中学3年生の男子1名が死亡した[53]。市内線では1955年7月21日に鳴和町で発生した脱線事故(乗客10人重軽傷)に次ぐ大事故であった[50]。事故翌日、金沢市長や市議会、金沢商工会議所から安全対策の徹底を求める意見が相次ぎ会社へ提出される[53]。警察からは全車両のブレーキ設備再点検および事故車と同タイプの半鋼製単車の検査完了までの運行停止を警告された[53]。事故後、名古屋陸運局の調査が入り、次いで7月末には運輸省建設省合同の保安監査が入って車両整備の徹底や運転保安の再教育などについて勧告があった[53]

以前から運転士の間では自動車増加による速度低下で電車をいずれ廃止せざるを得ないと話し合われていたが、この暴走事故が金沢市内線廃止の流れを決定づけたとされる[55]

廃線へ

金沢市内線廃止の議論が始まったのは1960年代に入ってからのことである。片町周辺の道路は1962年に幅員22メートルへと拡幅され、市内最初の歩道付き街路として整備されたが[48]、この都市計画に関連して1961年8月に市内線撤去について金沢市に意見があった[56]。これについて北陸鉄道では、償却費や撤去費がかさむこと、まだ年間2700万人の利用がありバスより電車の方が輸送原価が安いこと、バス転換しても道路の混雑は解消されないこと、といった点を挙げて撤去は適当でなない旨を表明する[56]。ただし都市計画上の必要があれば、バス転換費用などの補償など会社希望の条件が満たされた場合には撤去に反対しない、という意向を加えていた[56]。その後1965年6月に上記暴走事故が発生すると、地元紙北國新聞に市民の中に出ている市内線撤去の声に拍車をかけるであろう、会社はこの際事故防止の根本対策に関連して廃止問題を真剣に考えてはどうか、という旨の社説が出されている[44]

1965年、都市計画道路の拡張に伴い鳴和 - 東金沢駅前間0.8キロメートルの専用軌道敷が道路予定地となったため、金沢市から土地買収の要請が出された[56]。そこで北陸鉄道では同区間のバス転換を決定、12月に廃止を申請し翌1966年(昭和41年)2月23日付で国からの廃止許可を得た[56]。同区間は3月1日付で廃止され、バス転換された[56]

部分廃止決定後、社内最大の赤字線区で2年後には年間2億円以上の赤字を計上すると予想されるとして、北陸鉄道では市内線全廃の方針を打ち出し、1965年11月27日の株主総会を前にその方針を表明、次いで12月27日の取締役会にて全面廃止方針を決定した[56]。翌1966年2月21日には、会社は市に対し市内線全廃・バス転換を正式に申し入れた[56]。会社方針に対し金沢市議会では運輸対策特別委員会にて検討を重ね、6月15日交通緩和に廃止は必須という意見をまとめた[57]。20日の市議会全員協議会もこれを承認し市長に答申する[57]。その後8月15日に市と会社の間に全面撤去に関する協定書が交わされた[57]。こうして市の同意を得たことで会社は10月から廃止手続を開始し、1966年12月19日付で国からの廃止許可を得るに至った[57]

廃止許可後、年末年始と重なる点を考慮して橋場町 - 鳴和間2.0キロメートルのみ12月26日付で廃止・バス転換した[57]。残りの区間は翌1967年(昭和42年)2月11日付の廃止と決定され、2月1日からは花電車の運行を行った[57]。最終運行日は2月10日で、路線を一巡した花電車6両が23時に車庫へと到着したのをもって運行を終了した[57]。翌11日、電車代行バスが運行を開始[57]。20日から電気関係、3月19日から線路関係の撤去工事が始まり、1968年(昭和43年)1月21日に撤去工事がすべて終了した[57]

年表

  • 1912年(明治45年)6月28日 : 会社発起人に対し軌道敷設特許。
  • 1916年(大正5年)10月29日 : 金沢電気軌道設立。
  • 1919年(大正8年)2月2日 : 第1期線のうち金沢駅前 - 武蔵ヶ辻 - 兼六公園下間開業。
  • 1919年(大正8年)7月13日 : 橋場町 - 浅野川大橋間・兼六公園下 - 金沢病院前(後の小立野)間・兼六公園下 - 香林坊間・武蔵ヶ辻 - 香林坊 - 犀川大橋間開業。以上で第1期線全線開業。
  • 1920年(大正9年)11月20日 : 第2期線のうち野町線開業。犀川大橋より松金線起点(野町5丁目)まで。
  • 1921年(大正9年)7月10日 : 第2期線のうち野田寺町線開業。野町広小路より野村兵営前(後の寺町)まで。
  • 1922年(大正11年)7月13日 : 第2期線のうち大樋線開業。浅野川大橋より小坂神社前まで。
  • 1922年(大正11年)12月14日 : 大樋線浅野川大橋上の軌道開通。
  • 1926年(大正15年)4月7日 : 第2期線未開業区間の特許失効。
  • 1927年(昭和2年)2月11日 : 運賃制度を区間制から均一制へ変更。
  • 1941年(昭和16年)8月1日 : 金沢電気軌道ほか11社の合併により北陸合同電気設立。
  • 1942年(昭和17年)4月1日 : 北陸合同電気の交通事業を継承して(旧)北陸鉄道設立。
  • 1943年(昭和18年)10月13日 : (旧)北陸鉄道を含む石川県下の交通事業者7社の合併で北陸鉄道設立。
  • 1945年(昭和20年)5月17日 : 白銀町 - 六枚町(後の英町) - 金沢駅前間のループ線と小坂神社前 - 鳴和間開業。
  • 1945年(昭和20年)8月 : 松金線との直通運転停止。
  • 1945年(昭和20年)12月1日 : 鳴和 - 東金沢駅前間延伸開業。
  • 1949年(昭和24年)7月20日 : 車庫火災が発生。
  • 1949年(昭和24年)11月22日 : ボギー車初運転。
  • 1963年(昭和38年)1月23日 : 三八豪雪のため運休(2月12日まで)。
  • 1965年(昭和40年)6月24日 : 兼六坂(出羽町 - 兼六園下間)で脱線転覆事故発生。
  • 1965年(昭和40年)12月27日 : 取締役会において市内線全線廃止方針決定。
  • 1966年(昭和41年)3月1日 : 鳴和 - 東金沢駅前間廃止。
  • 1966年(昭和41年)12月19日 : 全線廃止許可が下りる。
  • 1966年(昭和41年)12月26日 : 橋場町 - 鳴和間廃止。
  • 1967年(昭和42年)2月11日 : 金沢市内線全線廃止、バス転換。

注釈

  1. ^ 金石電気鉄道は1920年10月に金沢駅裏の中橋駅まで延伸されている。
  2. ^ 兼六園下から兼六園に沿って小立野台地へと登る坂を兼六坂という。坂のある道路の沿道は尻垂坂通という町名であったが、町民の請願で1958年兼六通へと改称。坂の名前も昭和40年代に尻垂坂から兼六坂へ変わった(以上『角川日本地名大辞典』17 石川県 363・472頁による)。
  3. ^ 1968年10月郊外の金沢市割出町へ移転(『北鉄の歩み』217頁)。
  4. ^ 市内線廃止後の1970年旅客営業廃止、1972年貨物営業廃止で石川線白菊町 - 野町間は廃線となった。

出典

  1. ^ a b c d ちょっと昔の金沢”. 金沢くらしの博物館. 2021年12月20日閲覧。
  2. ^ a b 青電車飲食店に「停車」 金沢市電模した目を引く外観 廃線直後は本物、今はレプリカ”. 北國新聞. 2021年12月20日閲覧。
  3. ^ a b 『金沢市史』通史編3 380-384頁
  4. ^ a b c 『北鉄の歩み』16-22頁
  5. ^ a b c d 『金沢市政概要』昭和5年版202-205頁。NDLJP:1278873/139
  6. ^ a b c d e 『北鉄の歩み』22-28頁
  7. ^ 『金沢市要覧』7-8頁。NDLJP:945172/7
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 『日本鉄道旅行地図帳』6号29・31頁
  9. ^ 金沢市図書館蔵『金沢電車案内』(1919年4月金沢電気軌道発行)に収録の「金沢市街電車線路図」を元に記述
  10. ^ a b 金沢市図書館蔵「金沢市街地図」(1948年池亮吉編集・発行)を元に記述。
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