北海道異体文字
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/18 18:54 UTC 版)
北海道異体文字(ほっかいどういたいもじ)は、1886年(明治19年)頃に北海道で発見された文字。アイノモジ[注釈 1]、アイヌ文字[1]とも呼ばれる[注釈 2]。
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注釈
- ^ 吾郷(1975)における片仮名表記。漢字表記としては「夷奴字」あるいは「夷奴文字」を用いている。また「アイヌ古字」や「蝦夷古字」とも称している。
- ^ 坪井正五郎「北海道諸地方より出でたる古器物上に在る異体文字」では単に「異体文字」と称している。落合直澄『日本古代文字考』では「夷奴字」(傍訓は「アイノモジ」)ないしは「蝦夷字」、または「北海道異体文字」という語を用いており、この記事では後者の名称を採用している。
- ^ なお原田(2007)では「アイヌ文字」に関する文献として『坪井正五郎、「重ねてアイヌ木具貝塚土器修繕法の符合は貝塚土器のアイヌの邊物たるを證する力無き事を述ぶ」 『東京人類学会雑誌』 1890年 5巻 54号 p.368-371, doi:10.1537/ase1887.5.368』 に掲載されるをあげているものの、そこに北海道異体文字に関する記述は確認できない。
- ^ ただし落合はこの出雲の書島石窟に記された文字とされるものについて、出雲に「書島」という名称の島は確認できないため、実は出雲ではなく陸奥の辺りに伝えられたものではないかとしている。
- ^ ただし落合は、この記号を十干とするのは後世の人間による付会であるとしている。
- ^ 落合は「松山百穴古字」と称している。
- ^ a b 吾郷(1975)118頁では「金泥をもってアイノモジを書きつけている」としているが、荘司(1887)では「文字は朱色に類し小豆色」としている。
- ^ なお関場不二彦や金田一京助は明治初期に白野夏雲の部下によって捏造されたものとする説を唱えたが、のちの研究によって否定されている。
- ^ 同月の『小樽新聞』では「……我は部下を率ゐ大海を渡り…闘ひ…此洞穴に入りたり……」という表記になっている。
- ^ 1926年(昭和元年)12月19日の『小樽新聞』において違星が用いている名称。
- ^ 落合(1888)の表にある字を用いて解読している。ただし原田(2007)と同様に落合の表にはない発音を付している。
- ^ 久保寺によると「刻み目をつける」「コツコツ刻む」「啄む」の意。
- ^ 『日本庶民生活史料集成』の翻刻文にはない読点を補っている。
- ^ 『日本庶民生活史料集成』の翻刻文にはない濁点を補っている。
出典
- ^ a b 原田(2007)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 落合(1888)
- ^ a b c d e f g h i j k l m 坪井(1887)
- ^ 渡瀬(1886)
- ^ a b 1881年(明治14年)の『開拓使調書』による。
- ^ 中目(1918)
- ^ 『広報よいち』(外部リンク)による。
- ^ 1927年(昭和2年)11月21日の『小樽新聞』による。
- ^ 1927年(昭和2年)11月22日の『小樽新聞』による。
- ^ 1928年(昭和3年)1月10日の『小樽新聞』による。
- ^ 1927年(昭和2年)12月25日の『小樽新聞』による。
- ^ 久保寺逸彦・北海道教育庁生涯学習部文化課編『アイヌ語・日本語辞典稿-久保寺逸彦アイヌ語収録ノート調査報告書』北海道教育委員会、1992年、275頁。
- ^ 服部四郎編『アイヌ語方言辞典』岩波書店、1964年、60頁。
- 1 北海道異体文字とは
- 2 北海道異体文字の概要
- 3 関連する文字
- 4 アイヌの記録手段
- 5 参考文献
- 6 外部リンク
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