鎌倉前期とは? わかりやすく解説

鎌倉前期(発祥期~備中西遷)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 16:07 UTC 版)

三村氏」の記事における「鎌倉前期(発祥期備中西遷)」の解説

三村氏歴史少なくとも鎌倉時代初期まで辿ることができるが、もともとは常陸国筑波郡三村郷の開発領主もしくはその縁者思われ鎌倉幕府の一御家人に過ぎなかった。 『吾妻鏡』では、暦仁元年1238年)に将軍藤原頼経上洛に隋兵した三村親泰や、建長3年1251年1月3日椀飯行事で「五の御馬」や建長6年1254年元日椀飯行事で「四の御馬」を曳いた三村時親などをはじめ、「親」を通し字とする数名三村氏が既に確認できるちなみに建長3年1月3日椀飯行事で一の御馬を曳いたのは足利氏、二の御馬畠山氏、三の御馬佐原氏、四の御馬二階堂氏で、建長6年元日椀飯行事で一の御馬を曳いたのは北条氏(教時・時基)、三の御馬を曳いたのは伊東氏、五の御馬を曳いたのは北条氏(時定)・工藤氏であり、これら有力御家人中にあって三村氏鎌倉幕府内で一定の地位認められていたようである。 三村氏御門葉でもなく北条氏姻戚でもなかったが故に目立つこともなく逆に北条氏による有力御家人排斥圧力にも遭わず命脈保てたと思われる伝承によれば小笠原長経三男長時(「長持」とする小笠原系図一部にあるが、写本時の誤記であろう)が筑波郡三村郷に移りその子・親時の頃より三村氏称したという。 三村郷には長時叔父にあたる小田清家(小笠原長清の五男)がいたとされ、その関係で長時三村郷に縁が出来たではないかとも言われる三村郷を苗字発祥の地とする長時の子孫は、承久の乱後に信濃国筑摩郡洗馬荘地頭いわゆる新補地頭になったとされる信濃三村氏)。この係累は後庁氏など分流派生しつつ、以後小笠原氏家臣武田氏家臣として、信濃中心に一定の活躍をみた。 その信濃三村氏一流鎌倉時代後期までに備中星田郷地頭(新補地頭)となって当地移住したことにより、備中三村氏歴史が始まる。 いわゆる西遷御家人である。

※この「鎌倉前期(発祥期~備中西遷)」の解説は、「三村氏」の解説の一部です。
「鎌倉前期(発祥期~備中西遷)」を含む「三村氏」の記事については、「三村氏」の概要を参照ください。


鎌倉前期(1185-1223)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 01:13 UTC 版)

鎌倉文化」の記事における「鎌倉前期(1185-1223)」の解説

興福寺南円堂不空羂索観音坐像奈良県奈良市国宝運慶の父康慶代表作である。1188年文治4年)より康慶一門総力をあげて再興とりかかり翌年供養遂げた康慶興福寺南円堂諸仏つくったが、この不空羂索観音坐像南円堂本尊である。カツラ材の寄木造漆箔施し像高341.5センチメートル三目八臂の巨像である。奈良彫刻の古典的な要素たくまし造形がくわわって新し様式先駆うかがわれる南円堂には、やはり康慶一門による法相六祖像が安置され、ともに国宝となっている。同じく康慶一門によって造像された四天王像は現在南円堂安置されるではなく中金堂にある四天王像がそれにあたるとされている。 東大寺南大門金剛力士像奈良県奈良市国宝運慶とその弟子快慶らによる鎌倉彫刻の最高傑作目される寄木造金剛力士仁王)像である。1203年建仁3年)の制作使用材はヒノキである。解体修理過程で、墨書銘や像内納入品発見され運慶・快慶以外に定覚湛慶制作かかわっていたことが判明したが、全体構想運慶よるもの考えられる。口をあけた阿形閉じた吽形の二体一対(→阿吽参照)で構成される阿形像から発見され墨書銘に運慶快慶の名があり、吽形像の納入品の経巻定覚湛慶の名があったことから、運慶快慶阿形像、定覚湛慶吽形像の制作たずさわった推定される寄木造徹底した分業によってつくられ像高は8メートル超える着手よりわずか69日間という驚くべき短期間制作されたことでも知られる願成就院阿弥陀如来坐像、不動明王及び二童子立像、毘沙門天立像静岡県伊豆の国市国宝運慶1186年文治2年)、北条時政のために造った諸像。 浄楽寺阿弥陀如来及両脇侍像、不動明王立像、毘沙門天立像神奈川県横須賀市重要文化財運慶1189年文治5年小仏10人を率いて鎌倉幕府初代侍所別当和田義盛のために造った諸像。ヒノキ材の寄木造漆箔施されている。 興福寺北円堂弥勒仏坐像奈良県奈良市国宝北円堂本尊で、運慶指導のもとに一門仏師によって制作された、慶派本領みられる作品である。運慶晩年1208年承元2年)から1212年建暦2年)にかけて制作された。カツラ材の寄木造で、従来彫刻史の集大成をなす記念碑的な作との評価もある。 興福寺北円堂無著・世親像奈良県奈良市国宝1212年建暦2年)に運慶指導のもとで制作され肖像彫刻上述弥勒仏像左右にそれぞれ片足弥勒仏踏み出した形で安置されている。カツラ材を用いた寄木造玉眼嵌入する。無著アサンガ)・世親ヴァスバンドゥ)の兄弟5世紀ころ、北西インドガンダーラ生まれ大乗仏教唯識派法相宗)の教義確立した思想家肖像実際モデル不明ながら、写実性の高い像として古来著名である。弥勒仏坐像台座の銘によれば世親像は運慶男運賀、無著像は六男運助の担当推定される。しばしば日本肖像彫刻最高峰評される傑作である。 金剛峯寺不動堂八大童子像和歌山県伊都郡高野町国宝不動堂本尊不動明王像平安時代作)に随侍する八大童子で、運慶作と推定される制多迦童子慧光童子矜羯羅童子など6体が現存する残り2体は後補)。玉眼嵌入されており、いずれも保存状態良好金箔地なども用いた鮮やかな彩色がよくのこっている。 六波羅蜜寺地蔵菩薩坐像京都市東山区重要文化財) 「夢見地蔵」と通称される。銘文はないが、像にまつわる伝承やその作風等から運慶晩年の作とされる木像運慶一族菩提寺である地蔵十輪院伝世し、さわやかで理知的な地蔵表情鋭利な印象衣文造形運慶真作とされる所以である。 浄土寺浄土堂阿弥陀如来及両脇侍立像兵庫県小野市国宝浄土門信者であった快慶安阿弥陀仏)が重源のために造った丈六阿弥陀仏脇侍像で、重源意図する宋風を具現化するために宋画にもとづいて造られた。寄木造漆箔施されている。浄土寺東大寺再興のための播磨別所であった夕日後光のように背負うかたちで金色巨像が湧雲の上に立つ姿は、西方浄土から阿弥陀三尊立ち姿来迎する場面表現しており、きわめて荘厳な効果をあげている。快慶は、ここにおいて安阿弥様」と称される独自の様式完成し従来漆箔とは異な金色相の表現思い切って取り入れた。この西方夕日後光見立て取り入れ手法は、時を経て平成時代入り安藤忠雄により1991年竣工した兵庫県淡路市にある真言宗御室派別格本山である本福寺本堂御堂踏襲された。 東大寺重源上人像奈良県奈良市国宝東大寺復興さまざまな困難にちかってなし遂げた重源肖像初対面九条兼実に「もっとも貴敬すべし」といわせた真摯な人柄彷彿とさせる1206年建永元年)の重源死後、間をおかず慶派仏師によって制作されとみられる。左目をやや小さく表現するなど重源晩年の姿を写実しており、重源死没間もない作と考えられている。 東大寺勧進所僧形八幡神像奈良県奈良市国宝快慶1201年建仁元年)に制作明治神仏分離までは東大寺鎮守八幡宮手向山八幡宮)の神体であった僧侶の姿をしており、神仏習合特色を示す。まるで肖像と見えるほど写実的表情も豊かであり、整いなかにも神威表現されている。鮮やかな彩色もよく残っている。神像のためか玉眼はおこなわず、また、二材を中央で矧(は)ぎ寄せている。 東大寺地蔵菩薩立像奈良県奈良市重要文化財快慶作。やさしい表現をした顔、均整のとれた体躯流れるような美麗衣文など全体的に柔らかさ感じられる地蔵立像で、淡い彩色もよく残っている。寄木造興福寺金剛力士像奈良県奈良市国宝定慶の作と伝わり制作年代13世紀初頭推定される寄木造玉眼嵌入されている。興福寺西金堂の壇上守護のためにつくられたほぼ等身大の像で、写実性富み筋肉隆々として力動感にあふれている。一部に塑土を盛り上げ、かたちを整えている。 興福寺東金堂維摩居士坐像・文殊菩薩坐像奈良県奈良市国宝維摩居士坐像の像内に銘記により、1196年建久7年仏師定慶造立知られ同期造られとみられる文殊菩薩坐像一対をなしている。『維摩経』のなかの病んだ維摩居士文殊菩薩見舞一節写実的に表現している。口をひらいて法論挑む老いた維摩対し、それを黙って聞く若々しい文殊の姿が対照的である。 興福寺天灯鬼・竜灯鬼像奈良県奈良市国宝竜灯鬼像は運慶三男康弁の作。天灯鬼像も康弁その周辺の作とみなされる表情身振り巧みさにより、力強さなかにも洗練されたユーモア軽妙さがあり、評価の高い作品である。鬼は想像上生きものであるが、その造形人物手本写実的に表現したものであり、鬼のすがたのなかにも生き生きとした人間的な感情感じられるヒノキ材の寄木造天灯鬼彩、竜灯鬼緑青彩が施される前者植毛痕があり、また後者には植毛痕のほか、眉に銅板、牙に水晶、竜の背びれ獣皮用いるなどの細かい工夫施されている。 文殊院文殊菩薩騎獅像及脇侍像奈良県桜井市国宝快慶作。文殊院は「安倍の文殊」として有名な華厳宗寺院巨大な獅子にまたがる総高約7メートル文殊菩薩像を善財童子優填王維摩居士最勝老人)、須菩提仏陀波利三蔵)の4体の脇侍取り囲む文殊尊像である。像の完成供養は、像内銘によれば1203年建仁3年)、像内納入品経巻奥書によれば1220年承久2年)だが、作風建仁年間のころのものを示しているとされる寄木造で彫眼、肉身金泥塗、衣には彩色施している。なお、維摩居士像は後世補作である。

※この「鎌倉前期(1185-1223)」の解説は、「鎌倉文化」の解説の一部です。
「鎌倉前期(1185-1223)」を含む「鎌倉文化」の記事については、「鎌倉文化」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「鎌倉前期」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「鎌倉前期」の関連用語

鎌倉前期のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



鎌倉前期のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの三村氏 (改訂履歴)、鎌倉文化 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS