不動堂
不動堂
不動堂
不動堂
不動堂
姓 | 読み方 |
---|---|
不動堂 | ふどうどう |
不動堂
不動堂(日神不動院)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/20 05:27 UTC 版)
不動堂(日神不動院)は日神川をはさんで仲善寺跡の対岸にあり、周辺には国津神社に合祀される前の山王権現社跡や無銘の種子碑・石碑、磨崖仏などが集まっている。山王権現社は国津神社十三重塔が元々あった地であり、阿弥陀三尊の種子碑もあったとされる。 本尊の不動明王坐像は大洞石製で高さ115 cm、鎌倉時代のものであるが、主要部は焼損している。不動堂には享保10年(1715年)の銘がある鰐口と天文18年(1549年)の銘がある石塔がある。「不動院の種子碑」の名称で鎌倉時代の2基の種子碑が津市指定有形民俗文化財(1991年〔平成3年〕2月15日指定、指定時点では美杉村)となっており、堂の前のイチョウの木は「日神不動院のオハツキイチョウ」の名で三重県指定天然記念物(2000年〔平成12年〕3月17日指定)である。所有者はどちらも日神不動院管理委員会。このうちオハツキイチョウはギンナンが葉の先や裏にできる珍しい木であり、樹高約25 mの独立樹である。
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不動堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 05:51 UTC 版)
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不動堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 03:45 UTC 版)
「宝性院 (埼玉県杉戸町)」の記事における「不動堂」の解説
嘉永2年(1849年)に再建された不動堂は、建物全体に彫刻が施され、十六体のうち一体だけが毬を持つ獅子るもので、また「不動」と揮毫された扁額は武田信玄の子孫、徳川幕府の高家職を務めた武田信之によるものである。創建時の安産不動をはじめとした三不動を祀った当堂宇は武州東部三大不動尊(越谷・大聖寺、加須・總願寺、当寺)として信仰を集めた。
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不動堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 01:34 UTC 版)
1890年(明治23年)創建。現在の建物は1964年(昭和39年)に再建されたもの。本尊の不動明王は成田山新勝寺の本尊を勧請。関東三十六不動霊場第7番、武相不動霊場第1番札所。
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不動堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 19:18 UTC 版)
堂内に彩色された寄木造の不動明王像と二人の童子の像が安置されている。胎内に「施主覚書」と添状が納められており、造立が1684年(貞享元年)であることが記されている。
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不動堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 00:53 UTC 版)
当寺の境外仏堂として、「不動堂」(根岸4-9-5)がある。そこには「御行の松」とよばれる松があることで知られている(現在は4代目)。この仏堂には初代「御行の松」の根で彫った不動明王像が安置されている。 不動堂 御行の松
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不動堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 03:00 UTC 版)
不動堂は松峰山の本殿である。1786年(天明6年)焼失したことが『久保田郡邑記』『秋田風土記』『郷村史略』に記録されている。 「諸色書留帳」という資料によると、1863年(文久3年)4月8日の夜にも失火によって不動堂は焼失し、不動尊像も失われ、別当の伝寿院は大館佐竹家から謹慎50日を仰せつけられた。1867年(慶応3年)不動堂の再建が成った。材木は松峰山中から伐採し、近在近辺から寄進が呼びかけられた。しかし、1868年(慶応4年、明治元年)には秋田戦争があり、大館市街は焼き払われてしまい、さらに廃仏毀釈があったため、再建時には180両の寄進が集まったものの、1871年の不動堂遷宮のときには寄進は1両2分しか集まらず「不景気に相成り、どなたからも寄進が無い。誠にもってきのどく千万」(大館竹村家所蔵「永宝記」)という状況であった。 かつては真言宗松峰山という寺であったが、神仏分離により神社風に改修し、主神を月夜見命とし、名称を松峰神社と改めた。
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