特殊神事
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御供所神事 11月24日。例祭(卯辰祭)の神饌を調製する神事。その年に収穫されたもち米・うるち米を使って、マガリ・餅マガリ・オウブト・バイシ・小餅という5種の餅を作り、マガリ・オウブト・バイシについては油で揚げる。神饌は25日に神前に供えられ、26日に本祭を迎える。新嘗祭の伝統を伝える古式神事とされ、八尾市指定無形民俗文化財に指定されている。
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特殊神事
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お弓神事 2月第2日曜。境内社の八幡社の祭礼で、本来は旧暦1月7日に行われた神事である。祭員は親弓主・子弓主1名ずつ(成人)、小姓2名(男子)、矢取り2名(幼児)。古式に則り儀式が行われたのち、舞台から前方の的に向かって矢が射られる。この神事は年頭に邪鬼を祓う破魔弓が変化したものとされ、市の無形民俗文化財に指定されている。 お手火神事 「おてびしんじ」。7月第2日曜前夜。鞆祇園宮に関する祭礼で、同宮の神輿渡御に先立つ祓いの行事である。かつては旧暦6月4日に行われていた。祭事では、随身門に置いた大手火に神火を灯し、この大手火を拝殿まで1時間かけて持ち上げる。そして神輿を出して拝殿に納めたのち、大手火は境内・町内を練って不浄を清める。この神事は市の無形民俗文化財に指定されている。
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特殊神事
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神宮で行われる特殊神事。 御誓祭 「みちかいまつり」。3月6日(古くは旧暦2月6日)。仲哀天皇2年2月6日、天皇自ら参詣して「此地に宮居を定めて永く居らん」と誓った故事に因む神事。 御名易祭 「みなかえまつり」。3月8日(古くは旧暦2月8日)。神功皇后摂政13年2月8日、皇太子(応神天皇)と気比神が名易(名変え)を行なった故事に因む神事。本宮と伊佐々別神社(摂社)に海産物を主とする神饌が献じられる。 御田植祭 「おたうえさい」。6月15日。田植え前に行われる神事で、田長以下早乙女が神楽歌を口ずさんで豊作祈願が行われる。平安時代から行われる神事であるという。 牛腸祭 「ごちょうさい」。6月16日。9月の神幸祭で引く山車の順序を米くじで決める神事。女人禁制のほか厳重な制度のもと行われる。 総参祭 「そうのまいりのまつり」。7月22日(古くは旧暦6月中卯日)。仲哀天皇2年に、神功皇后が仲哀天皇の命により敦賀から穴門国へ向かった故事に因む神事。前日夜には「寅神祭」として、海上安全と船型神輿への神霊奉遷の神事が行われる。そして当日には御座船「神宮丸」に船型神輿を載せ、御幸浜(みゆきはま)から敦賀湾に出船して途中船中で祭典が行われ、対岸にある旧摂社常宮神社への渡御が行われる。この日の敦賀湾は禁漁日となり、奉祀すれば3年の豊漁に恵まれるということから、多数の漁業者も曳行を行う。祭名「そうのまいり」は、このように総じて参拝する様子を称したものという。 なおこの神事について、神宮では神功皇后が百官を率いて出征した故事に因むとするが、地元では気比神が眷属・氏子を率いて常宮神を妻訪いする神事であると伝える。
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特殊神事
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お田打ち神事 1月7日。正月に五穀豊穣を祈る予祝神事。本殿で「田祭」を行なったのち舞殿で行う。神事では舞殿中央に荒むしろを敷いて田所とし、田打に始まって種蒔きや鳥追いまでを模擬的に演じる。終盤では雷鳴として太鼓を鳴らして夕立に遭う所作を行う(雨乞いを意味する)。この神事から、三嶋神に農耕神の性格を見る指摘もある。神事は静岡県指定無形民俗文化財に指定されている。 粥占神事 1月15日。「かゆうらしんじ」。年頭に作物の収穫を占う神事。神事の前には「小豆粥祭」として、小豆の粥の中に餅を割り入れて各種神饌と共に供える祭を行う。そして粥占として、この粥の中に作物の名前を書き込んだ篠竹の筒を入れて炊き、竹筒への粥の入り具合から作物の収穫占いを行う。 奉射神事 1月17日。「ほうしゃしんじ」。年頭に悪病退散を祈る神事。本殿で「奉射祭」を行なったのち射場で行う。神事では大的に矢を放って平穏を祈る。神事の後に大的を破り取って災難除けのお守りとする習わしがある。 鳴弦式 節分の日。「めいげんしき」。悪霊退散を祈る神事。本殿で「追儺祭」を行なったのち舞殿で行う。神事では舞殿中央に祭壇を設け、祝詞奏上ののち弓の弦を鳴らす。これによって邪気が祓われるとする。 流鏑馬神事 8月17日(例祭翌日)。天下泰平・五穀豊穣を祈り流鏑馬を奉納する神事。神事は平安時代から続くといい、記録では源頼朝が文治元年(1185年)6月に流鏑馬を奉納したことが見える。古くは4月・8月の酉祭と6月20日の年3回行われたというが、明治初年に廃絶した。その後昭和59年(1984年)に再興されて現在に至っている。
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特殊神事
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踏歌神事 「とうかしんじ」。1月4日。大地を踏みしめて五穀豊穣を祈る神事。中国の隋・唐で流行した群集歌舞に由来するもので、かつては宮中でも1月中旬に踏歌節会が催されて「阿良礼走(あらればしり)」とも称されたが、現在は当社と熱田神宮(愛知県名古屋市)に残るのみといわれる。 神事では、第一本宮での祝詞奏上後、直垂を着用した所役2人(言吹<ごんすい>・袋持)が、それぞれ梅の枝(言吹)・袋(袋持)を持って斎庭で向かい合って立ち、3度声を掛け合ったのち袋持が神前に餅を供える。その後神楽女が白拍子舞、熊野舞を奉納して、餅まきを行う。 白馬神事 「あおうましんじ」。1月7日。白馬が各本宮を巡拝して邪気を祓う神事。年初に白馬(青馬)を見れば年中の邪気が祓われるとする中国の信仰に由来するもので、かつては宮中でも1月7日に白馬節会(青馬節会)が催され、現在は当社のほか賀茂別雷神社(京都府京都市)・鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)などに残る。 神事では、祝詞奏上後、神馬と奉行2人・神馬舎人が各本宮で拝礼したのち全本宮を外周する。 御結鎮神事 「みけちしんじ」。1月13日。弓矢で除魔招福を祈願する神事。神事では、第一本宮での祭典・饗膳後、射場で古式による弓十番が行われる。 松苗神事 「まつなえしんじ」。4月3日。松の苗の植樹と俳句披露を行う神事。住吉大社の松は歌枕の「住吉の松」として古来著名であったが、江戸時代の天明期(1781-1788年)に枯死が目立った。そのために当時の俳人が松苗献木と俳句献詠を募り『松苗集』として住吉御文庫に奉納した、という故事に因む。 卯之葉神事 「うのはしんじ」。5月初卯日。鎮座伝承日(神功皇后摂政11年辛卯年卯月上卯日)に因み鎮座を記念する神事。旧暦では4月(卯月)、太陽暦移行後は5月に斎行される。 神事では、鎮座伝承地の五所御前に卯の葉の玉串を捧げる。その祭典後、石舞台で舞楽が奉納されるとともに、卯の花苑の一般公開も行われる。 御田植神事 「おたうえしんじ」。6月14日。御田(神田)で盛大に田植えを催す神事。住吉大社鎮座時に、神功皇后が長門国から植女を召して田を作らせたのが始まりと伝える。 神事では、まず神館で植女の粉黛・戴盃式を行なったのち、石舞台で全員の修祓、第一本宮で豊穣の祭典を行い、神前の早苗が植女に授けられる。そして御田に向かい、替植女による植付けが始まるが、その植付けの間に舞台や畦で田舞・神田代舞・風流武者行事・棒打合戦・田植踊・住吉踊といった芸能が催される。 御田植行事は各地に残るが、住吉大社の御田植は規模が大きく代表的なものであるとされ、「住吉の御田植」として国の重要無形民俗文化財に指定されているほか、芸能は国の選択無形民俗文化財に選択されている。 宝之市神事 「たからのいちしんじ」。10月17日。神功皇后が三韓の貢物・百貨をもって市を立てて庶人に分かった故事に因むと伝えるが、五穀を神前に供えたのち庶人に分かったのが本旨ともされる。神事では、御田の刈り取りののち、本宮にて初穂や升に入れた五穀を供える祭典が行われるほか、近日日曜日に相撲大会が催される。かつては升が多く売られたことから「升の市」とも称され、その時に参詣した松尾芭蕉は句を残している。 そのほか、3月初旬頃・11月初旬頃には埴使(はにつかい)と称される神事が行われる。これは祈年祭・新嘗祭に先立って、奈良県の畝傍山で埴土(はにつち:両祭での供献土器を作る材料とする土)を採取する神事である。『住吉大社神代記』で住吉大神が神功皇后に詔をして天香山の埴土で天平瓮を作らせたとする記事との関連が推測されるほか、『日本書紀』神武天皇即位前紀では神武天皇が天香山の埴土で祭器を作らせて丹生川上での祭祀に使用したと見えることから、畝傍山や天香山の埴土が古代氏族の祭祀権に関係したことが示唆される。神事では、住吉大社の神職が雲名梯神社(河俣神社)・畝火山口神社(いずれも奈良県橿原市)で祭典を行ったのち、畝傍山山頂で三握半の土を採取する。
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特殊神事
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粥占神事 「かゆうらしんじ」。1月11日。 小正月の年占い神事。かつては1月15日に行われたが、現在は1月11日に斎行されて15日に結果が発表される(粥占奉賽祭)。神事では、米5枡・小豆3枡を大釜で炊き、その中に占竹53本1束を吊り下げて入れ、竹の中に入った小豆粥の状態でその年の豊作を占う。また黒樫の占木12本(閏年は13本)を竈に入れて、木の焦げ具合で晴雨を占う。『河内鑑名所記』にも神事の様子が記述される。大阪府選択無形民俗文化財に選択されている。 注連縄掛神事(お笑い神事) 「しめかけしんじ」。12月23日。 笑いにより春を誘う神事。かつては粥占神事に先立つ1月8日に行われた。神事では、石段下の注連縄柱に大きな注連縄を掛け渡し、その下で神職と氏子総代が春の到来を念じて高笑いを行う。東大阪市指定無形民俗文化財に指定されている。
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特殊神事
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数方庭祭(すほうていまつり) 8月7日から13日まで7夜に渡って行われる祭である。仲哀天皇7年、新羅の塵輪(じんりん)の扇動で熊襲が豊浦宮を襲撃したが、仲哀天皇自ら弓矢を取って塵輪を討ち、熊襲を撃退した。戦勝を祝い、塵輪の屍体を囲んで踊ったのが数方庭の起源であると伝える。石見神楽など、各地方に伝わる神楽舞には「塵輪」という演目があるが、本伝説が基といわれる。一説では塵倫は巨大な怪鳥であったともいわれ数方庭祭を斎行しなかった年に長府の空を大きな鳥の影が飛び疫病が流行った。 塵倫の祟りだと考えた神社、また長府の町民が7日間数方庭祭を続けたところ疫病が治まったことから一週間祭りを行うとも、神功皇后が7日7夜の間、忌籠りされて天地の神々に戦勝を祈願されたという伝説、仲哀天皇の追悼の為、7日間喪に服したことからなど諸説ある。この7日間は後述の御斎神事期間の由来と同様とされる。 「すほうてい」は他に「スホーデン」「スッポウディ」などと呼ばれ、「数方庭」の他にも「数宝庭」「数方勢」などの当て字がある。朝鮮半島の「ソッティ」「スサルティ」など音が似ている語との関連も研究されている。 境内中心の鬼石のまわりを男は幟、女は切り籠と呼ばれる笹飾りを持って舞う、幟は最大30m、100kgにもなり修練が必要となる。もとは戦勝祈願と同時に敵の大将である塵倫や戦で命を落とした者への慰霊・供養の祭であったと言われるが数方庭が数宝庭と書かれたことや様々な信仰が混じり合い、現在は五穀豊穣、子孫繁栄、厄難退除、先祖供養などの祭となっている。 御斎神事(おいみしんじ) 例祭は12月15日である。その前の12月7日夕刻から15日暁までは「御斎祭(おいみさい)」として、境内に注連縄を張り巡らし、一般の人の参拝をできないようにし、神職も境内の外へ出ないという厳重な物忌みが行われる。御斎神事中は深夜に様々な秘祭が行われる。この間、神職は風呂に入れず、髭も剃れない。また、日々の食事も制限され粥と漬け物、お湯だけで過ごし、15日暁の忌明けと同時に身を清め、例祭に備える。神事の開始を告げる境外摂社守宮司神社での板神楽神事を始め、御衣・御神宝調製、三朝神事、全神職の海中潔斎、御衣・御神宝奉納の御祭が主な祭である。長門一の宮である住吉荒魂本宮でも概ね同様の神事が行われる。 16日の夕刻には御斎神事と例祭の無事終了の報告を守宮司神社で行い後烏神事と呼ばれ、忌宮神社を上位の神職から出立し、後烏神事後は下位の神職から忌宮神社へ帰社する。帰社の際、惣社町の町民が囃歌と共に見送る。
※この「特殊神事」の解説は、「忌宮神社」の解説の一部です。
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