神饌
神饌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/23 03:49 UTC 版)
神饌(しんせん)とは、日本の神社や神棚に供える供物のこと。御饌(みけ)あるいは御贄(みにえ)とも呼ばれる。
注釈
- ^ 古例を受け継ぐ「梅枝糕(うめがえもち)・口型餅(くちがたもち)・舌型餅(したがたもち)・寄餅(よせもち)」が御饌・神酒・海の幸・山の幸とともに供えられる。梅枝糕は寛永八年(896)4月7日、生前の菅原道真公が白山比咩(しらやまひめ)神社の白山比咩大神に献供した意匠のもの。潔斎した神職が、米粉を水でこねて蒸し上げた細長い団子に梅の枝を模した五つのきざを付け胡麻の油で揚げる。十本ずつ麻でゆわえ三束計三十本をもって一盛となす。例大祭斎行の後、夕御饌祭が行われる
- ^ 神社によって漢字が異なり、彌美神社と諏訪神社では野老、美保神社では薢と呼ばれる。
- ^ 葵で桂を挟んだもの。葵は男性、桂は女性を表し、子孫繁栄を祈願する。
- ^ 檜皮を船の形に成型して作った器に御飯を入れたもの。弁当箱の原型と考えられている。
- ^ 船御飯と同様に、葩餅(はなびらもち)を10枚入れ、その上に小豆をあしらったもの。
- ^ 榧(かや)の実、打栗、神馬草、吹上(あられ)、御はぜ(玄米を煎ったもの)、青海苔、紫海苔、鶏冠海苔、六十海苔、若布などを奉書紙で包んだもの。
- ^ 南北朝時代から応仁の乱まで大神を守護したという古事の残る獅子狛に奉げられる鯛。
- ^ 小豆を煮たもの。
- ^ 解体した鴨を聖護院かぶを土台にして再成形したもの。周囲には鮫の切り身が添えられ、内臓もきれいに洗われて盛り付けられる。かつては鴨でなく雁で作られた。
- ^ 三枚に下ろした鮭を大根を土台にうずたかく盛り付けたもの。周囲には鮫の切り身が添えられる。
- ^ 鳥羽盛などを作った際に出た鮭や鮫の皮や骨を細かく砕いたもの。
- ^ 唐櫃と辛櫃の2種類の呼び方があるが、神宮では辛櫃。
- ^ これに加えて、建物、御装束、神宝も一新するため、式年遷宮は大神嘗祭とも呼ばれる。
- ^ 同様の意味の呼び名には、祭座、頭座、座衆、宮衆、宮講、神事講、座株、宮持、神官、宮組、宮筋、宮仲間、頭仲間、祝株(ほうりかぶ)、長老衆、十人衆などがある。
- ^ 作られる餅は一部を空洞にし、総量を減らす工夫をした上で8升、これを4月30日の宵までに持ち回りで準備される。2004年以前は氏子の手で搗かれたが、それ以降では餅屋に注文しているという。
出典
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神饌(お供え)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/16 19:00 UTC 版)
神饌(お供え)としては、米、酒、塩、水が基本である。そのほかに乾物、野菜、果物、菓子類などが供えられる。米、酒、塩、水は毎朝、榊は月に2度(通常は1日と15日、ほかに祀っている神札の祭神にゆかりの日)新しいものと取り換えるのがよいとされている。ほかに、合格通知や祝物の熨斗紙などが捧げられる場合もある。 神饌の置き方は、米・塩・水の場合、向かって左から水・米・塩、または向かって左から手前に水・塩、奥に米とする。米・酒・塩・水の場合、向かって左から水・酒・米・塩、または向かって左から手前に水・塩、奥に酒・米、もしくは向かって左から手前に水・塩、真ん中に酒・酒、奥に米とする。 また、獣肉や乳製品、ネギ属の野菜は供えるのを控えることが多いが、地域や祭神によってはこれらを供える場合もある。 神へ供えた食べ物は後で「お下がり」としていただくようにする。
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神饌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 16:09 UTC 版)
神饌として、以下のものが供される。 稲作物…米の蒸し御飯、米の御粥、粟の御飯、粟の御粥、新米から醸した白酒(しろき)、黒酒(くろき) 鮮魚…鯛、烏賊、鮑、鮭を甘塩にして三枚に卸し、背の部分を小さい短冊形に切り、一品ずつ四筥に納める。 干物…干鯛、鰹、蒸鮑、干鱈で、筥に納める。 果物…干柿、かち栗、生栗干、棗で、そ筥に納める。 他には蛤の煮付け、海藻の煮付け、鮑の羹、海松(みる)の羹がある。 ここで用いられる「筥」は、葛を編んだものである。 調理用の火は、鑚火(きりび)の忌火を用いる(「忌」とは、この上なく清浄という意味)。 これらを盛る容器は、御酒や汁物には土器が用いられるが、他は窪手、枚手(ひらて)で、いずれも柏の葉に竹のひごを刺して作られたものである。窪手は筥型で盛り付け用、枚手は丸い皿型で取り分け用で、窪手の中の神饌を枚手に取り分けて神前に供える。これは食薦(すごも)の上に並べて供える。 神饌はそれ自体が神として扱われており、奉持して運ぶことを「神饌行立(行立)」という。掌典が階下に控えて警蹕を唱える。
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神饌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 06:08 UTC 版)
新穀 大嘗祭において供される神饌(しんせん)の内、稲については特に重要視される。稲を収穫する田を「斎田」(さいでん)といい、大嘗祭はこれを選定するところから始まる。 大嘗祭の祭祀は同じ所作の物が2度繰り返されることから、斎田も2か所あり、それぞれ悠紀(ゆき)・主基(すき)と呼称される。この語源は、「悠紀」は「斎紀(斎み清まる)」、「斎城(聖域)」とされ、また「主基」は「次(ユキに次ぐ)」とされる。 悠紀・主基の国を斎国(いつきのくに)という。悠紀は東から、主基は西から選ばれるのを原則とし、畿内の国(山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国の令制5か国(現在の京都府、奈良県及び大阪府))から選ばれたことは一度もなかった。宇多天皇以降は近江国が悠紀、丹波国と備中国(冷泉天皇の時のみ播磨国)が交互に主基とされ、その国の中で郡を卜定した。明治以降は悠紀は概ね京都以東・以南、主基は京都以西・以北として全国から選出されるようになった。また、当時における樺太・関東州・朝鮮など外地からの献上品も、京都からの方角で悠紀・主基の区別を分けられている。大正・昭和でも京都を境界線として若干の差異があったが、平成以降は斎行場所が東京になったため東西の境界線に変更が加えられ、悠紀国は新潟県、長野県、静岡県を含む東側の18都道県、主基国は西側の29府県となった。 斎田は、亀卜を用いて決定される。この儀式は斎田点定の儀(さいでんてんていのぎ)と呼ばれる。神殿にて掌典職が拝礼したあとに前庭に設営された斎舎にて斎行され、これにより都道府県が決定される。平成においては、亀甲の入手が国際条約や都道府県条例により入手困難になったため手法の変更も検討されたが、剥して年月を経たものは抵触しないことから、国産のアオウミガメを入手して行われた。 旧来は国・郡が決められた後現地で具体的に斎田を早急に決め、防護、警備にあたっていたが、平成以降は都道府県のみ速やかに発表され、斎田については収穫の直前になって初めて公表されるようになった。斎田の持ち主は大田主(おおたぬし)と呼ばれ、奉耕者として関連する祭祀に列席する。 明治以降の悠紀・主基 明治以降の悠紀・主基斎田所在地等は下表の通りである。これらの斎田所在地は、斎田に選ばれた栄誉を後世に語り継ぐために記念碑等を建てたりしている。中でも明治大嘗祭の主基斎田所在地は村名も主基村に改称したり、大正大嘗祭の悠紀斎田所在地は一連の儀式を再現した祭(六ツ美悠紀斎田お田植えまつり)を現在に伝えている。 天皇大嘗祭が行われた年大嘗祭が行われた場所悠紀主基旧国名斎田所在地旧国名斎田所在地明治天皇(第122代天皇) 1871年(明治4年) 東京都千代田区千代田皇居吹上御苑 甲斐 山梨県巨摩郡上石田村(現・甲府市上石田3丁目)<大田主:山田松之丈> 安房 花房県長狭郡北小町村字仲ノ坪(現・千葉県鴨川市北小町字仲ノ坪) 大正天皇(第123代天皇) 1915年(大正4年) 京都府京都市上京区京都御苑 仙洞御所 三河 愛知県碧海郡六ツ美村大字下中島字上丸ノ内(現・岡崎市中島町字上丸ノ内)<大田主:早川定之助> 讃岐 香川県綾歌郡山田村大字山田上(現・綾川町山田上)<大田主:岩瀬辰三郎> 昭和天皇(第124代天皇) 1928年(昭和3年) 京都府京都市上京区京都御苑 仙洞御所 近江 滋賀県野洲郡三上村(現・野洲市三上[御上神社前])<大田主:粂川春治> 筑前 福岡県早良郡脇山村(現・福岡市早良区脇山)<大田主:石津新一郎> 上皇明仁(第125代天皇) 1990年(平成2年) 東京都千代田区千代田皇居東御苑 羽後 秋田県南秋田郡五城目町大川石崎<大田主:伊藤容一郎> 豊後 大分県玖珠郡玖珠町大字小田<大田主:穴井進> 徳仁(第126代天皇) 2019年(令和元年) 東京都千代田区千代田皇居東御苑 下野 栃木県塩谷郡高根沢町大谷下原<大田主:石塚毅男> 丹波 京都府南丹市八木町氷所新東畑<大田主:中川久夫> 旧来は8月下旬、抜穂使を両斎国に遣わし、斎田と斎場雑色人、造酒童女、物部人、物部女らを卜定、斎田に面した斎場に殿舎を建てていた。 ここで設けられたのは神殿、神饌殿、稲実殿であり、この神殿の祭神は延喜式で「御歳神(みとしのかみ)、高御魂神(たかみむすびのかみ)、庭高日神(にわたかびのかみ)、大御食神(おおみけつかみ)、大宮売神(おおみやめかみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ)、阿須波神(あすはのかみ)、波比伎神(はびきのかみ)」(祭神八座)と定められている。平成以降は斎田の決定が収穫の直前になったため、殿舎は天幕張りとせざるを得なかった。 収穫前日、斎田の近くの河原において、斎田抜穂前一日大祓が行われる。抜穂使の随員が大祓の詞を読み、参列者を祓う。 その翌日(9月の内の吉日)、斎田抜穂の儀を執り行う。祭神の降神に次いで抜穂使が祝詞を奏上し、その命を受けた大田主以下奉耕者が順番に斎田で稲穂を抜き取る。稲穂は抜穂使の見分を経て、最初の4束は高萱御倉に、残りは稲実殿に収められる。前者は御飯(みい)、後者は黒酒(くろき)・白酒(しろき)として供される。 これらの米は9月下旬、大嘗宮斎庫に納められる(悠紀主基両地方新穀供納)。この殿舎を建てるに際しては、まず地鎮祭が行われ、野の神を祭って萱を刈り取り、山の神を祭って料材を伐採する。抜穂が終わると八神殿において祭典がなされる。 精粟 悠紀国、主基国からそれぞれ供納されており、量はそれぞれ7.5キログラムである。 庭積(にわづみ)の机代物(つくえしろもの) 全国各地の農水産物が奉納され、供される。 古例でも各地よりの農水産物の献上品が、悠紀殿前庭の帳殿に机を並べ、その上に盛り付けて奉納された。それゆえに「庭積の机代物」と称されたのである。 一例では大膳職・造酒司により、東鰒(アワビ)50斤、隠岐鰒192斤、佐渡鰒40斤、蒸海鼠(イリコ)182斤、烏賊(イカ)72斤、鮭20隻、昆布60斤、海藻36斤、橘子100蔭、搗栗5升、干柿100連、梨子5斗、大豆餅・小豆餅各60枚、酒あわせて15石2斗が供えられたという。 近代の初例は明治の大嘗祭において、悠紀国に選ばれた甲斐国の名士層より、国内一円挙げて大嘗祭に奉賛するべく、土地の産物献上の申し出があったものである。この申し出が認められ、悠紀殿の儀の際に、三方に載せられた鳥、魚、介、海菜、野菜、果物等の産物が、庭積の机代物として、悠紀殿前の庭に並べられた。 明治25年(1892年)に新嘗祭で各地からの産物の供納を受けるようになると大嘗祭においてもこれらの例に準ずるようになり、大正、昭和の大嘗祭では全道府県および外地の台湾、樺太、朝鮮、関東州、南洋から米1升、粟5合と特産の蔬果魚介を購入した。平成以降は米、粟に加え、各地の名産品を最大5品目まで供納(宮内庁が購入)するようになった。 これらの品は、東日本の物は悠紀殿、西日本の物は主基殿の前庭帳殿内の机に置かれ、平成の大嘗祭までは「神事に使ったものは埋めて自然に戻す」などとして終了後にすべて埋納していたが、令和の大嘗祭では食品ロスの問題などの社会情勢の変化に鑑み、食品として有効活用することが検討されることになり、大嘗祭終了後の11月18日には「庭積の机代物」や「献物」の一部を、食用として埼玉県所沢市の国立障害者リハビリテーションセンターに提供することが宮内庁から公表された。 このほか、御贄(読み:みにえ、米以外の食物。「由加物/斎甕物(ゆかもの)」と称す)が紀伊国や阿波国から納められる。 また、大嘗祭に続いて執り行われる大饗の儀では、悠紀国、主基国それぞれの県や関連団体の推薦によって選定された農林水産物15品が「献物」(けんもつ)として会場正面に陳列される。こちらは庭積みの机代物とは別枠の選定である。
※この「神饌」の解説は、「大嘗祭」の解説の一部です。
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