昭和平成とは? わかりやすく解説

昭和 - 平成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 04:31 UTC 版)

上福岡市」の記事における「昭和 - 平成」の解説

1927年昭和2年) - 福岡受信所(日本無線福岡出張所設置 1929年昭和4年) - 火工設置問題で、耕作権擁護同盟結成される1931年昭和6年) - 新河岸川改修工事終了通船停止令のため、新河岸川水運全廃される。 1937年昭和12年) - 火工廠が竣工し操業開始される1945年昭和20年) - 7月福岡受信所でポツダム宣言傍受されたと推定される。 1959-60年(昭和34-35年)、上野台団地霞ヶ丘団地建設入居開始 1960年昭和35年11月13日 - 町制施行され福岡町となる。 1972年昭和47年4月10日 - 市制施行上福岡市となる。 1985年昭和60年8月15日 - 非核平和都市宣言をする。 2004年平成16年) - 住民投票の結果2市2町(富士見市上福岡市大井町三芳町)での合併不成立となる。2000年国勢調査での人口富士見市(103247名)、上福岡市(54630名)、大井町(45488名)、三芳町(35752名) 2005年平成17年10月1日 - 隣接する入間郡大井町合併しふじみ野市になる。

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昭和 - 平成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 14:43 UTC 版)

志木市」の記事における「昭和 - 平成」の解説

1929年昭和4年10月31日 - 宗岡閘門及び洗堰ができる。 1930年昭和5年)いろは架設される。 新河岸川改修工事竣工式挙行される。 1931年昭和6年) - 県の通船停止令により、新河岸川の舟運終了する1936年昭和11年) - 埼玉第一飛行場(のち浦和飛行場)が着工1937年昭和12年10月 - 松永安左エ門によって、東邦電力研究施設として町内に「東邦産業研究所」が設立される1939年昭和14年4月7日 - 町立志木商業学校創立される。 1944年昭和19年2月11日 - 北足立郡志木町および内間木村入間郡宗岡村および水谷村合併し北足立郡志紀町発足する1945年昭和20年4月3日 - 太平洋戦争下空襲で、幸町一丁目米軍B-29時限爆弾を8発投下。後に爆発して民家母屋物置吹き飛び防空壕避難していた5人が巻き込まれ死亡1947年昭和22年4月1日 - 志紀町志紀中学校開設される1947年昭和22年12月15日 - 慶應義塾獣医畜産専門学校神奈川県川崎市から志紀町移設される。 1948年昭和23年4月1日 - 志紀町分離し合併前の志木町宗岡村水谷村内間木村となる(いずれも北足立郡)。町立志木商業学校の名称を町立志木高等学校改める。慶應義塾獣医畜産専門学校慶應義塾農業高等学校改称する1949年昭和24年3月29日 - 町立志木高等学校廃止し、その跡に志木中学校移設する。 1949年昭和24年4月 - 志木公民館落成される。 1951年昭和26年7月16日 - 宗岡公民館落成される。 1954年昭和29年8月11日 - 県道新座川越線通称防衛道路」)が完成する1955年昭和30年5月3日 - 志木町宗岡村合併し足立町発足する1957年昭和32年4月1日 - 慶應義塾農業高等学校普通科高校とし、名称を慶應義塾志木高等学校改める。 1960年昭和35年立教高等学校池袋から新座町移転となり、これに合わせて志木駅南口開設される埼玉県下で最も早く救急車備えられる1964年昭和39年11月 - 水資源開発公団による秋ヶ瀬取水堰完成する1965年昭和40年市場坂上付近野火止用水暗渠となり、道路拡張される。 10月31日 - 志木電報電話局開設される12月16日 - 大字志木(現・志木市幸町3丁目)に国際興業バス川越営業所志木車庫開設される1967年昭和42年6月 - 足立町消防新庁舎竣工する9月27日 - 足立町消防本部設置される1968年昭和43年4月1日 - 志木第二小学校開設される1969年昭和44年4月15日 - 柏町第一保育所開設される1970年昭和45年10月26日 - 市制施行に伴い名称変更志木市となる。同時に市章制定する3月31日 - 宗岡浄水場完成する1972年昭和47年4月1日 - 中宗岡第二保育所開設される5月31日 - 現在の市庁舎落成する1973年昭和48年4月1日 - 宗岡第二小学校および志木第二中学校開設される11月1日 - 宗岡地区町名上宗岡中宗岡下宗岡宗岡となる。 11月25日 - 第1回産業祭開催される1974年昭和49年4月1日 - 埼玉県立志木高等学校開校する幸町第三保育所開設される1975年昭和50年4月1日 - 志木第三小学校および宗岡中学校開設される4月11日 - 本町二丁目大火があり、42世帯141人が被災する(志木大火)。 1976年昭和51年4月1日 - 下宗岡第四保育所開設される1977年昭和52年4月1日 - 宗岡第三小学校開設される9月15日 - 長野県南佐久郡南牧村志木市少年自然の家完成する1978年昭和53年4月1日 - 志木市歌が制定される第一保育所中野保育園に、第二保育所が北美保育園に、第三保育所西原保育園に、第四保育所がばんば保育園それぞれ改名される。 5月1日 - 市民会館開館する1979年昭和54年2月9日 - 保健センター開所する。 3月1日 - 志木地区残り町名が館になる。 4月15日 - 図書館郷土資料館開設される5月7日 - 市民救急病院開設される8月 - 志木ニュータウンへの入居が始まる。 11月8日 - 東上線柳瀬川駅開業し西口設けられる11月10日 - 消防自動車はしご車)が備えられる1980年昭和55年1月29日 - いろは水門(旧宗岡閘門)が撤去される4月1日 - 志木第四小学校および三ツ木保育園開設される4月23日 - 市民体育館開設される7月23日 - 柳瀬川駅東口設置される1981年昭和56年4月1日 - 宗岡第四小学校開設される1982年昭和57年2月1日 - 埼玉運輸支局所沢自動車検査登録事務所開設され管轄大宮ナンバーエリアから所沢ナンバーエリアに変更となる。 4月1日 - 宗岡第二中学校開設される1987年昭和62年8月25日 - 東武東上線旧営団地下鉄有楽町線(現・東京地下鉄有楽町線)の相互直通運転開始される1988年昭和63年10月24日 - 志木郵便局柏町四丁目から本町五丁目移転する1990年平成2年4月24日 - 新河岸川における鯉のぼり掲揚が行われる。 11月25日 - 志木市交響楽団第1回演奏会が行われる。 1992年平成4年3月13日 - 柳瀬川図書館開設される3月25日 - せせらぎ小径一部完成する1993年平成5年3月16日 - 国際興業バス川越営業所志木車庫西浦和営業所の開設に伴い移転のため閉鎖8月19日 - 大相撲志木場所が行われる。 1994年平成6年3月15日 - 防災行政無線運用開始1997年平成9年8月4日 - 群馬県館林市と「大規模災害時における相互応援に関する協定」を締結する2000年平成12年2月24日 - 志木駅東口再開発ビル竣工する2003年平成15年4月1日 - いろは遊学館開設される7月1日 - 本町ある朝日屋原薬局が国の登録有形文化財に登録される。 2005年平成17年3月31日 - ららぽーと志木閉館する8月25日 - 長沼明市長財政非常事態宣言発令する2006年平成18年1月17日 - 「災害時食糧供給等の協力に関する協定」が山崎製パン埼玉第一工場締結される2006年平成18年4月1日 - 「志木市中学校通学選択の自由化」が開始される7月1日 - 路上喫煙防止条例施行される2007年平成19年4月1日 - 志木市救急市民病院志木市立市民病院改称しリハビリテーション科設置される8月25日 - 長沼明市長財政非常事態脱却宣言する2008年平成20年4月17日 - 市町村全国初となるねんきん特別便支援相談室設置する2008年平成20年4月21日 - 長野県上水内郡飯綱町と「大規模災害時における相互応援に関する協定」を締結する6月14日 - 東京メトロ副都心線開業同時に東武東上線東京メトロ副都心線相互直通運転開始される10月3日 - 人口が7万人突破2011年平成23年3月11日 - 東北地方太平洋沖地震東日本大震災)で発生した津波秋ヶ瀬取水堰到達2013年平成25年7月30日 - 千葉県香取郡東庄町と「大規模災害時における相互応援に関する協定」を結ぶ。 2017年平成29年1月27日 - 山梨県富士吉田市文化・観光交流協定締結

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昭和 - 平成

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俳優」の記事における「昭和 - 平成」の解説

1950年代から1960年代にかけて五社協定という取り決めがあり、映画会社専属契約結んだいわゆる映画俳優は、自社製作映画以外への出演制限されるなど、明確に活動範囲区分されていた。そのため初期大河ドラマは、歌舞伎界や新劇などの俳優に頼らざるを得なかった事情がある。同時期の民放テレビドラマも同様で、海外ドラマ輸入して放送したり、テレビ局制作するドラマには、映画俳優以外の俳優新人起用することで対処していた。 1970年代になり、邦画斜陽化伴って五社協定が自然崩壊しさらには映画会社テレビドラマ外注先になってテレビ映画制作するなど、映画テレビとの垣根はほぼ消滅した。既にテレビドラマ制作現場で映画俳優頼らないシステム確立され、別ジャンルから俳優業参入するケース以前より増えた。ただし、テレビドラマにおいては俳優実力よりも、テレビ局所属事務所、あるいは番組スポンサーとの関係や、俳優個人人気すなわち視聴率取れかどうか重視してキャスティングすることが多く視聴者疑問感じキャスティングがされる場合もある。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}現在の[いつ?]日本国内においてもっぱら劇場用映画出演して生活を成り立たせることができる者は皆無に近い。つまり「映画俳優」はほぼいなくなった1990年代以降テレビ局主導映画製作が行われるケース一般的になり、テレビドラマ制作スタイル俳優業本業としない者が俳優兼業するスタイル)の領域拡大傾向にある。一方で俳優名乗りながらバラエティ番組など活動している者も多数おり、職業として俳優という区分曖昧になりつつある。これについて、映画俳優設定確立しているアメリカ違い拘束時間長い割に金銭的に恵まれない日本俳優環境のちがいの指摘もあるが、俳優個人価値観所属事務所方針問題大きい。また、それぞれの出身職業をあくまで本業としつつ、俳優業含めて様々な活動を行う者もおり、マルチタレント呼ばれる場合がある。これは評価される場合もあるが、否定的な見方をされることも多い。 俳優業華やかな一面厳し世界と言われている。俳優志望して俳優として食べられる(それ自体で生活を維持できる程度収入得られる)人はごくわずかで、収入安定していないため、俳優として食べられるうになる段階到達する人の数よりも、中途半端な状態で挫折してしまう人の数のほうがはるかに多い。また、一旦ある程度仕事増えても、そのままずっと俳優いられる保証はなく、一時的に第一線活躍していた俳優でもその後はほとんど仕事がない人もいる。

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昭和・平成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 14:13 UTC 版)

剣術」の記事における「昭和・平成」の解説

1945年昭和20年)、日本太平洋戦争敗戦する。連合国軍最高司令官総司令部GHQ指令によって大日本武徳会解散し武道禁止された。この間苦肉の策として撓競技しないきょうぎ)というスポーツ考案されフェンシング似せた用具ルール採用するなどして、従来剣道とは無関係のものとして行われた占領解除され1952年昭和27年)に全日本剣道連盟発足し、本来の剣術稽古できる環境戻ったが、形稽古竹刀稽古二極化進み今日至っている。ただし、一刀流諸派直心影流など、形・竹刀とも重視している流派もある。神道無念流流れを汲む一剣会羽賀道場日本剣道協会では、戦前のままの足搦投げ技も含む竹刀稽古続けている。 日本古武道協会日本古武道振興会では、剣術保存振興のために、形の記録映像制作や、古武道演武大会などを開催している。

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昭和・平成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/27 13:22 UTC 版)

裂織」の記事における「昭和・平成」の解説

その独特の風合い芸術的側面光を当て創作活動として裂織見直動き生まれた素材は必ずしも古布とは限らず、布の染め方や裂き方などに多く工夫凝らして複雑なデザイン挑戦する芸術家登場しつつある。

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昭和・平成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 16:46 UTC 版)

弥富市」の記事における「昭和・平成」の解説

昭和に入ると、五明にのちのニッケとなる昭和毛織紡績弥富工場開業昭和後期までガチャマン景気」と呼ばれる戦前戦後尾州繊維産業快進撃流れ彌富町にも全国各地から女工集い当時人口統計にも若い女性比率が高いとの記録がある。 昭和の大合併では1955年昭和30年)に鍋田村および市江村楽平地区合併市江村のその他地区佐屋町合併)。町名を“海部郡彌富町”から“海部郡弥富町”に改称した翌年隣接する三重県桑名郡木曽岬町とも合併協議もたれたが、こちらは三重県議会反対などから実現しなかった。 1959年昭和34年)の伊勢湾台風では、海岸河川堤防多く箇所決壊し入植開始されたばかり鍋田干拓地を含む全域水没町内308名の犠牲者出した台風後は治水設備大幅に強化され洪水の危険性は減少した一方で縦横流れていた水路多く埋め立てられ水郷地帯としての風景様変わりした。高度成長期並行して耕地整理道路事業公共施設建設団地開発ラッシュ進み主力産業のひとつであった漁業海苔養殖はほぼ消滅した昭和40年代減反政策が行われると町内多く農家弥富金魚養殖業転業し、昭和50年代生産量ピーク迎えた一方で産業の発展人口増加に伴い地下水揚水量が著しく増加すると、町内地盤沈下現象起こし問題となった。また町北部では、名古屋大都市圏ベッドタウンとしての需要高まり田畑金魚養殖池埋め立て宅地開発が行われた。 名古屋港一部として沿岸部埋め立て進められ、これらの埋め立て地1976年以降順次弥富町組み入れられている。1996年平成8年)には、長年帰属問題となっていた木曽岬干拓地一部編入された。 平成の大合併施策に伴い2002年平成14年)から海部郡飛島村、同郡蟹江町、同郡十四山村との合併協議会が行われた。しかし、飛島村合併に伴う村民サービス低下懸念から住民投票にて反対過半数となり、蟹江町対等合併という協定進められる弥富町新市名を「弥富市」とすると主張したことから対立となり、両町併合白紙撤回となった十四山村でも編入合併という立場議会反対したが、賛成派住民による議会リコール申し出て住民投票の結果賛成52%・反対48%でリコール成立2006年平成18年)、十四山村編入合併市制施行し、愛知県35番目の市弥富市発足した

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昭和・平成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 15:18 UTC 版)

日本の脚気史」の記事における「昭和・平成」の解説

1975年昭和50年)には脚気再燃し原因には砂糖の多い飲食品副食少なインスタント食品といった、ビタミン少なジャンクフードがあることが分かった1975年昭和50年)には、高カロリー輸液点滴の際に「ビタミンB1欠乏症」が報告され死亡を含む重症例が相次ぎ1991年平成3年)に厚生省は「緊急安全性情報」を出し調査開始し調査結果1997年平成9年)には、厚生省高カロリー輸液点滴の際に、ビタミンB1投与するという通達出した2014年平成26年)にも、高齢者食品購入の不自由さから、副食食べず白米のみを食す食生活により、脚気発症報告されている。

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