大関時代
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新大関で迎えた3月場所は11勝4敗、次の5月場所では14勝1敗の成績で3回目の優勝を果たし、翌7月場所で初の綱獲りを目指すこととなり、千秋楽に13勝2敗で曙太郎・兄若ノ花らとの優勝決定戦に進出した。しかし曙は若ノ花を押し倒し、貴ノ花を寄り倒して破り、貴ノ花は優勝同点に終わる。場所後に日本相撲協会から横綱審議委員会への諮問が無かった為、横綱昇進はならなかった。この時横綱昇進を果たしていれば20歳11ヶ月での横綱昇進となり、北の湖の記録である21歳2ヶ月での昇進より早いスピード横綱昇進記録1位の座を射止めていたことになる。 続いて9月場所は初の全勝優勝を狙った曙を千秋楽で下して阻止。曙に次ぐ12勝3敗の優勝次点で綱獲りを再び繋いだが、翌11月場所は体調不良により7勝8敗と負け越して綱獲りは振り出しに戻る。1994年1月場所では21歳5か月での大関角番も史上最年少の記録となった。この1月場所では14勝1敗で4回目の幕内最高優勝で復活。同年の3月場所で綱獲りを再び期待されるが、11勝4敗で優勝を逃し綱獲りは失敗。5月場所では14勝1敗の成績で5回目の幕内最高優勝を果たすが翌7月場所では11勝4敗に終わり、またしても綱獲りは失敗に終わった。 次の9月場所では初の全勝優勝(史上最年少の全勝優勝)。場所後に協会は横審に貴ノ花の横綱昇進の諮問をし、約2時間の審議の末、最後は無記名投票の結果11人の委員中6人が賛成したが、横審の内規である「3分の2以上の賛成」に及ばず、横綱昇進は否決された。審議前から反対を明言していた一力一夫は「諮問があるとは思っていなかった。先場所は準優勝でもないのに、どこを見ても内規に則していない。そのことは理事長も百も承知のはず。内規を無視する覚悟を決められたということでしょう。」と協会の態度を強く批判し、反対票を投じたと明言した加藤巳一郎は「協会の立場、本人の成長ぶりはよくわかるが、横綱は絶対的なものでないといけない。連続優勝できないということは何か欠けるものがあるからだ。」と述べ、他の反対票を投じた委員も「横綱になれる力を充分持っているのだから、あせる必要がない。」としてもう一場所様子を見るよう主張した。 それでも、貴ノ花から「貴乃花」と改名して迎えた翌11月場所でも他を全く寄せ付けず、双葉山以来の「大関で2場所連続全勝優勝」を果たし、先場所からの30連勝も達成した。千秋楽結びの一番での曙との一番は49秒の死闘の末に、土俵際で貴乃花が右上手投げで逆転勝利し、「これぞ、名勝負というのだろう。」「角界の第一人者の座をかけた攻防はまさに互角。一年納めの場所を締めくくるにふさわしい死闘だった。」と称賛された。
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大関時代
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新大関の1994年3月場所は序盤5連勝したものの、その後は黒星が増えて9勝6敗に留まる。同年5月場所では終盤まで優勝を争ったが、千秋楽に貴ノ花(当時)に敗れ12勝3敗の優勝次点に終わった。しかし続く7月場所では、千秋楽に貴ノ花を下手投げで倒して、大関としては1987年5月場所の大乃国以来となる15戦全勝で念願の幕内初優勝を達成。武蔵丸と同じハワイ出身の先輩である高見山、小錦、曙もなし得なかった史上初の外国出身力士による幕内全勝優勝を果たした。初優勝を遂げた際、武蔵丸の目は真っ赤に充血し、「うれしいよ」を繰り返すばかりで、後は言葉にならなかったと後年に伝わる。優勝パレードでは大雨、暴風、稲光に見舞われ、ずぶ濡れの凱旋となった。 12勝の優勝次点に続く全勝優勝と、横綱昇進の基準である「二場所連続優勝もしくはそれに準ずる成績」に値する実績だったが、当時は昇進の目安が厳しかったこともあり殆ど話題にならなかった。次の9月場所は初の綱獲りとなったが、結局11勝4敗に留まり失敗。尚同場所11日目の琴の若戦では、最高位が横綱の力士としては平成以降唯一の水入りを経験した。 1994年7月場所千秋楽の相撲は武蔵丸にとって生涯最高の相撲である。本人は引退後に「本当に強い力士がいっぱいいた。あのときに関脇、小結なら、今は横綱、大関じゃないか。魁皇なんて絶対に横綱だね。そんななかでの全勝だから、価値があるんだよ」と当時の幕内上位の層の厚さを語っていた。 その後も終盤まで何度も優勝争いに加わる成績を残すが、横綱の曙・貴乃花らにあと一歩届かない成績が続いた。さらに左肩関節の負傷の影響により、1996年初場所から3場所連続で9勝6敗の成績が続き、その後も10勝前後に落ち着いてしまい低迷した。その低迷を挽回すべく右差しで腕を返して寄る相撲に変えたのが功を奏し、これまで分の悪かった貴乃花戦は1997年(平成9年)以降12勝7敗と勝ち越し、晩年は5連勝して終わっている(但し優勝決定戦を除く)。 1996年1月22日に日本国籍を取得し、本名を「武蔵丸光洋」としている。 貴乃花が初日から全休した1996年11月場所は、11勝4敗ながら幕内歴代最多数となる史上初の5人(ほか曙・若乃花・貴ノ浪・魁皇)での優勝決定巴戦となった。1回戦は武蔵丸が若乃花を寄り倒し、魁皇をすくい投げた貴ノ浪と共に巴戦進出へ。そして巴戦でも武蔵丸は1回戦不戦勝の曙と、そして最後は貴ノ浪をそれぞれ寄り切りで下して2連勝、14場所ぶり2回目の幕内優勝を達成する。1日50番の稽古のおかげで持久力が十分備わっていたため、決定戦は苦にならなかったという。尚15日制定着後で11勝の優勝は幕内最少勝星タイ記録(1972年1月場所の栃東以来24年ぶり2度目)である。ちなみに武蔵丸は全勝から12勝までの優勝も経験しており、11勝~15勝の5通りの勝利数での優勝を経験した唯一の力士である(2022年現在)。続く1997年1月場所は2回目の綱獲りだったが、優勝の若乃花に及ばす惜しくも12勝3敗に留まった。貴乃花が途中休場した翌1998年(平成10年)1月場所も混戦となったが、12勝3敗で武蔵丸が7場所ぶり3回目の幕内優勝。同年3月場所3回目の綱獲りに挑むが、前半戦の取り零しが響いて8勝7敗と又しても失敗に終わった。 1999年(平成11年)1月場所は、序盤から中盤にかけて黒星が先行、幕内昇進後初の負け越しも懸念されたが終盤持ち直し、7勝7敗で迎えた千秋楽の武蔵丸は貴乃花を土俵際で突き落とし、辛うじて8勝7敗と勝ち越した。 その次の3月場所は、場所終盤の11日目から当時の3横綱(貴乃花・若乃花・曙)が全員休場し、横綱不在となってしまった(ほか新大関の千代大海、関脇の武双山らも途中休場。なお3横綱の全員休場は、1950年1月場所の羽黒山・東富士・照國以来49年ぶり)。この異常事態に当時の時津風理事長(元大関・豊山)が異例の謝罪会見を行っている。それでも武蔵丸と貴ノ浪の当時2大関が奮起し、千秋楽は両者12勝2敗同士の相星決戦となって場所を盛り上げた。その千秋楽結びの一番は武蔵丸が貴ノ浪を寄り切って完勝、13勝2敗で4度目の幕内優勝を果たした。また武蔵丸は同場所で、幕下時代から続く通算連続勝ち越しが51場所となり、当時の北の湖が持つ50場所 を更新する新記録を達成した。 翌5月場所、武蔵丸は通算4回目の綱獲りとなった。場所前半で平幕力士に2敗を喫して心配されたが、その後連勝を続けて優勝争いの先頭に立ち、千秋楽は11勝3敗と1差で追う横綱曙との対戦となる。その千秋楽結びの一番は、武蔵丸が曙を押し倒して13勝2敗の成績で5度目の幕内優勝を決める。また大関として2場所連続優勝を果たし、ついに5月場所後に横綱昇進となった。連覇を果たしたものの、直近3場所合計34勝(平成時代の横綱昇進者では最低記録)の成績や3月場所が3横綱不在だったことに注文が付いたが、当時通算52場所連続勝ち越し中だった安定感と、優勝5回の実績を評価された形で昇進が認められた。なお大関32場所目での横綱昇進は、琴櫻と並ぶ史上1位タイのスロー昇進だった。因みに大関在位32場所(更に新入幕から関脇以下のを含めて46場所)の間負け越し・角番は一度も経験しなかったが、これは大相撲史上最長の記録 である。またこの昇進を最後に、2017年(平成29年)1月場所後に昇進を決めた稀勢の里まで、日本国籍を持つ横綱は2016年(平成28年)まで17年に渡り1人も誕生しない状態が続いていた。 本人は大関時代に低迷していたのは酒の飲み過ぎのせいだと考えており、断酒して相撲に集中したらすぐに横綱になったと語っている。
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大関時代
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大関在位3場所目の1983年9月場所は、7日目まで6勝1敗と好調だった。しかし8日目の横綱・隆の里戦で上手捻りで敗れた際、「右膝内側側副靱帯損傷」の大怪我を負い途中休場、翌11月場所は全休。通常ならば大関で2場所連続負け越しすれば関脇へ陥落となるが、同1983年5月場所から公傷制度が大関にも適用される(その後2003年11月場所限りで公傷制度は廃止)事が決まっており、朝潮の11月場所の全休は公傷が認められたため、運良く陥落は免れた。また、大関の地位で公傷制度が適用されたのも、朝潮が第1号である。初の大関角番となった1984年(昭和59年)1月場所は、10勝5敗と勝ち越して角番を脱した。 大関でも連相撲ぶりが目立っていたが、1984年頃より従来の突き押し主体から、左四つ右上手で寄る相撲に変わっていき取り口的にも安定するようになった。1985年(昭和60年)3月場所では、6日目から連勝を重ねて勢いに乗り、千秋楽で大関若嶋津との12勝2敗同士の相星決戦を制し、13勝2敗の成績で第二の故郷大阪でようやく悲願の幕内優勝を果たした。その若嶋津戦では、当たって右上手を十分に引いた朝潮が、正面からグイグイ寄り進み、上手投げから186㎏の体重を預けるように寄り倒す会心の取り口で若嶋津を撃破。この1985年3月場所を最後に現役引退を表明した兄弟子の富士櫻への餞となった。この時期には、相手に当たった衝撃で額から血を流すことがしばしば見受けられ、流血も顔を二分化するかのような凄まじいものであった。本人は「白星欲しさに」だというが後に「あんなことしても痛いだけなんですけどね」と苦笑しながらコメントしている。その優勝した場所でも、流血して勝ちを取ったかのような勢いがあり、この頃の朝潮は横綱も正面から打ち負かすほどの、最強の強さを発揮していた。因みに、朝潮は最後の餞にと富士櫻を優勝パレードの旗手に指名している。旗手は通常なら幕内力士が務めるが、引退時の富士櫻は十両であったため、十両力士が幕内優勝パレードの旗手を務めるのは異例であった。なお、朝潮の幕内優勝は後述の通り、この1985年3月場所が唯一である。 しかし優勝場所以後、10勝以上を挙げたのはわずか2度で、14日目か千秋楽に勝ち越しを懸ける場所が多くなっていった。大関時代の後半の成績も8勝や9勝がほとんどで、「クンロク大関」と皮肉られた。それでもライバルとして横綱では隆の里や千代の富士(但し千代の富士の関脇昇進後は差が開いた)、大関では琴風、若嶋津、北天佑などがいた。 また、上記のように、14日目を終え7勝7敗で迎えた場所の勝率が高いこともあり、やくみつるも昭和63年の「おちゃんこクラブ」のネタとして「横綱四態」の表題で、千代の富士を「実力横綱」大乃国を「番付横綱」鳳凰を「稽古場横綱」と描いたオチに朝潮を「千秋楽7勝7敗横綱」と皮肉と揶揄を込めて描いているが、引退の前場所、カド番として最後に勝ち越した場所は前半、6勝1敗と好調ながら中盤以降連敗し、14日目に勝ち越しを決めたが千秋楽に、敗れ8勝7敗に終わっている。 稽古不足の影響からか、大関晩年は押し相撲には必須の出足が鈍り、引きや叩きに対して脆く、前に落ちやすくなっていた。そしてそれが顕著に現れたのが、当時は突き押しのみが得意だった100kgを僅かに上回る程度の幕内最軽量級の若手力士寺尾との取り組みで、寺尾にがっぷり四つに組まれ電車道の横綱相撲を取られる失態を犯した。これはある意味朝潮の致命的な弱点で、受けに回るとあっけなく寄り切られるという巨漢力士に似合わぬものであった。 元号が昭和から平成へ変わったわずか2場所目の、1989年(平成元年)3月場所は大関角番では無かったものの、初日から4連敗を喫し体力の限界を理由に、4日目の寺尾戦を最後に現役引退を表明。なお当初、朝潮自身は「5日目の孝乃富士戦を現役最後の一番にしたい」と申し出たものの、相撲協会からは「死に体で土俵に上がる事は許されない」と認められず、5日目の孝乃富士戦は結局不戦敗となった。また、大関在位数36場所は、当時貴ノ花(初代)の50場所に次ぐ史上2位だった(現在史上8位)。 成績は大関止まりであったが、当時の横綱大関陣の優勝、番付昇進は朝潮の活躍が大きく作用している点も見逃せず、対戦力士にとって優勝や昇進においてベンチマーク的存在となっていた。北の湖は前述の通り、朝潮に再三敗れたために、連勝を何度も止められている上、千代の富士にも幾度も優勝を譲っている。1981年(昭和56年)1月場所では関脇・千代の富士は全勝で千秋楽を迎えた。北の湖は朝汐に負けて13勝1敗、千秋楽の北の湖対千代の富士は北の湖が勝ったが決定戦で千代の富士が本割のお礼とばかりに横綱を這わせ初優勝、場所後大関に昇進した。同年7月場所で横綱昇進を決めたのも、全勝の北の湖が朝汐に突き倒されて、千秋楽に相星決戦となった伏線があり、これもまさしく朝潮の暗躍の結果である。 因みに、本場所で支度部屋での朝潮は面白いキャラクターそのもので、その日の勝敗についてよくマスコミと冗談も交えて談笑して雰囲気を盛り上げたものであった。のちに相撲協会の広報部長に就いたのも、持ち前の話術をうまく生かしていたものと言えた。「高砂部屋の芸能部長」を自認し、CMにも出演、また1984年にはラジオシティレコードから「ほたる川」で歌手デビューするなどの活動もあった。現役時代は稽古嫌いなどと一部からは指摘されていたが、実際には富士櫻や高見山に半殺しに近い猛稽古を付けられており、大関昇進後も5代高砂から稽古中に当たり前のように竹刀で叩かれていたところを見た後援者が「朝潮はもう大関なんだから竹刀で叩くのをやめろよ」と意見したこともある。 いしいひさいちの4コマ漫画でも主人公となり、『ワイはアサシオや』という単行本になったほど。彼のキャラクターがいかに魅力的だったかがわかる。ちなみに彼自身この漫画のファンで、いつも読んでは爆笑していたという。また、木村えいじの漫画『達磨』の、達磨親方役も本人の公認済。器の大きさを表すエピソードである。
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大関時代
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大関になってからも膵臓炎の影響で満足な成績を出せる場所は多くなかったが、1977年9月場所は誰もが驚く絶好調、連戦連勝で横綱・北の湖と優勝争いの先頭を併走、直接対決には敗れ優勝はできなかった(北の湖は全勝優勝)が、堂々の14勝1敗。しかし綱獲りとなった11月場所は8勝7敗に終わり横綱昇進は果たせなかった。 平幕など下位の相手には技量・力量を見せつけ、比較的勝ち星を量産できたものの、横綱・大関との対戦になる場所後半に負け込むことがほとんどだった。横綱との対戦でとりわけ苦手にしていたのは輪島であり、対戦成績は4勝31敗(決定戦含む)と大きく差をつけられた。大関昇進を決めた1976年3月場所でも、本割・優勝決定戦の両方で輪島に敗戦した。また、北の湖との対戦も7勝27敗と大きく差をつけられた。この7勝のうち、6勝は大関昇進前の勝ち星であり、昇進以後は1977年5月場所に一度勝利したのみで、全く勝てなくなった。前述通り大関在位中に千秋楽まで優勝を争った場所でも北の湖に負けたことで優勝を逃した。その他、大関貴ノ花にも分が悪く、通算で11勝26敗と大きく負け越し(不戦敗を含む。両者が大関同士では対戦成績は4勝13敗)。 それでも持病の膵臓炎で度々入院治療を続けながら、1978年3月場所7日目、魁傑との取組で、4分26秒の大相撲で水入りして3分25秒でも勝負がつかず再水入り、両者に休憩時間を与える為に当日の結びの一番(北の湖 - 青葉山戦)を先に行った後、10分後改めて取り直し。その取り直しの一番もまた三度目の水入りとなる寸前の2分33秒で掬い投げで敗北を喫したものの合計10分19秒の大熱戦で、場所前に退院したばかりの旭國にとっては正に「土俵上で死ねたら本望」の言葉通りの相撲であった。この相撲は打ち出しが18時25分に達し、NHKの相撲放送延長の新記録となっている。 1979年9月場所7日目に同期生である新横綱・三重ノ海との対戦で負傷して途中休場後、再起は難しいと考えて引退した。現役引退に際し、「一度は優勝したかった」と名残惜しそうに述べていた。
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大関時代
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大関昇進後は12勝3敗・11勝4敗と着実に星を残して、「昭和の大横綱」千代の富士に次ぐ実力ナンバー2と目され、次の横綱候補の筆頭だった。1986年1月場所では13日目まで1敗で、星一つの差を付ける千代の富士との14日目の直接対戦に幕内初優勝を賭けたが、極度の緊張から力を全く出し切れずに敗れ、千秋楽も北尾(のち第60代横綱・双羽黒)の引きに敗れて12勝3敗に終わり、優勝決定戦すら出場できなかった。翌3月場所に初めての横綱挑戦権が与えられたものの、序盤で2敗を喫したことで9勝6敗に終わりチャンスを逃した。 同年5月場所では、逆鉾に寄り切られた際に右足を骨折する重傷を負った。それでも休まず11勝4敗の成績を挙げたが、この無理が影響して約1年間低迷する。同年9月場所は7勝1敗で迎えた9日目から失速して8勝7敗。次の11月場所は10勝5敗だったものの、翌1987年1月場所から2場所連続で9勝6敗と期待を裏切り続けた。それまで新勢力の一番手と見なされてきたが、この過程で優勝では北勝海に、横綱昇進では双羽黒に、共に大乃国より1年年下の「花のサンパチ組」(昭和38年生まれ)にそれぞれ先を越されてしまった。同年11月場所は千代の富士を土俵際の投げで破った際に失神させたり、初優勝を目指す双羽黒に土をつけたり、1987年3月場所で優勝を決めた北勝海を破るなど存在感は見せつけたが、下位力士への取りこぼしは相変わらず多かった。 しかし、1987年5月場所は初日から見違えるような安定した相撲で連勝を続けて、千秋楽で当時横綱昇進が掛かっていた北勝海を下して15戦全勝で初の幕内最高優勝を果たした。横綱昇進がかかった同年7月場所は千秋楽では前場所とは逆に、この場所で横綱に昇進した北勝海に敗戦を喫し12勝3敗でチャンスを逸したものの横綱挑戦権は継続され、次の9月場所は13勝2敗と順調に星を重ねて場所後に第62代横綱への昇進を果たした。杉並区阿佐ヶ谷南の放駒部屋で行われた横綱昇進伝達式では、「初一念を忘れず、相撲道に精進します」と口上を述べた。1987年10月1日、二所ノ関一門の親方が揃う中、放駒部屋で綱打ち式が行われた。横綱土俵入りの指導は、佐渡ヶ嶽が当初行っていたが、途中から一門の総帥である二子山が土俵にあがり、直々に土俵入りを指導、「ウっと四股を踏んで、ダッと腰を下ろしたら拍手が来るから、そしたらググっと摺り上がれ。」「すぐ摺り上がったらだめ、拍手を待つくらいの余裕を持たなきゃ。」「好きにやればいい。横綱がやれば、横綱土俵入りなんだ。」と助言を受けた。 昇進直前の2場所は全て優勝次点だったが、直前3場所通算の成績は40勝(5敗)で近年では貴乃花(41勝)に次ぐ高い数字(当時第56代横綱・2代若乃花と並ぶ最高タイ記録)であった。ただし、1987年11月場所後に双羽黒が師匠・立浪親方(元関脇・安念山)らとの衝突の末廃業事件を起こしたきっかけに、その後「横綱昇進の条件は(原則として)大関の地位で2場所連続優勝」に事実上変更される。それ以降、第63代・旭富士から第70代・日馬富士の8力士は全て「大関2場所連覇」での横綱昇進だったが、2014年5月場所新横綱の第71代・鶴竜は14勝(優勝同点)・14勝(優勝)と、27年ぶりに大乃国以来連覇無しでの横綱昇進となっている。
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大関時代
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第二次世界大戦中の一時期は、出羽海部屋に身を寄せて巡業や稽古を共にした。そのまま移籍する話も持ち上がり、当人も出羽海側も移籍のつもりだったが、高砂一門の総帥である前田山がこれを認めなかったことで、東富士は半ば脱走するように出羽海部屋を去らなくてはならなかった。しかし、この一件が背景を知らない出羽海の力士との間に遺恨を残すことになり、これも本場所で実力を発揮しきれなかった一因と考えられている。 1945年6月場所は、戦局の悪化によって旧・両國国技館にも空襲があり、それによって天井に穴が開いた状態で開催されたことで、晴天のみ7日間興行となった。東富士はこの場所を羽黒山政司・佐賀ノ花勝巳の1横綱1大関はじめ対戦のあった三役力士はすべて破って6勝1敗の好成績を残した。この1敗は6日目、朝からの雨で中止と決めつけて昼から酒を飲み、予定通り開催と知って慌てて国技館に駆けつけて出場、平幕の十勝岩豊にうっちゃりで敗れたものである。この失態によって優勝はこの場所7戦全勝だった備州山大八郎に浚われたが、前場所の9勝1敗(優勝同点)に続く好成績だったことで関脇を2場所で通過、戦後最初の場所となった1945年11月場所で大関に昇進する。 新大関の場所は全勝の羽黒山に敗れただけの9勝1敗の星を残したが、1946年の巡業で右足に重傷を負い、直後の11月場所は平幕戦だけで3敗するなど7勝6敗。これ以降は後遺症で成績が不安定となる。1947年6月場所では9勝1敗で羽黒山と前田山、力道山とともにこの場所からはじまった優勝決定戦に出場するが、1回戦で前田山に敗れ、続く11月場所は新鋭の千代ノ山に叩き込みに敗れるなど6勝5敗に終わる。 1948年5月場所では力道山にうっちゃりに敗れただけの10勝1敗で初優勝。力道山に敗れた1番は、力道山が立ち合いから猛烈に突っ張って出て、東冨士は左を差すと一気に出て土俵際、腰を落として寄り倒そうとしたが、力道山は必死にこらえ、力を振り絞って右へうっちゃった、という流れであった。同10月場所は増位山大志郎に本割・決定戦ともに敗れて優勝同点だったもののやはり10勝1敗で、場所後に横綱免許を授与された。これは吉田司家が授与した最後の横綱免許となった(次に昇進した千代の山からは協会が授与するようになった)。
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