大関時代とは? わかりやすく解説

大関時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 10:01 UTC 版)

貴乃花光司」の記事における「大関時代」の解説

新大関迎えた3月場所11勝4敗、次の5月場所では14勝1敗の成績3回目優勝果たし、翌7月場所で初の綱獲りを目指すこととなり、千秋楽13勝2敗で曙太郎・兄若ノ花らとの優勝決定戦進出した。しかし曙は若ノ花押し倒し貴ノ花寄り倒し破り貴ノ花優勝同点に終わる。場所後に日本相撲協会から横綱審議委員会への諮問無かった為、横綱昇進はならなかった。この時横綱昇進果たしていれば20歳11ヶ月での横綱昇進となり、北の湖記録である21歳2ヶ月での昇進より早いスピード横綱昇進記録1位の座を射止めていたことになる。 続いて9月場所は初の全勝優勝狙った曙を千秋楽下して阻止。曙に次ぐ12勝3敗の優勝次点で綱獲りを再び繋いだが、翌11月場所体調不良により7勝8敗と負け越して綱獲りは振り出しに戻る1994年1月場所では21歳5か月での大関角番史上最年少記録となった。この1月場所では14勝1敗で4回目幕内最高優勝復活同年3月場所で綱獲りを再び期待されるが、11勝4敗で優勝逃し綱獲りは失敗5月場所では14勝1敗の成績5回目幕内最高優勝を果たすが翌7月場所では11勝4敗に終わりまたしても綱獲りは失敗終わった次の9月場所では初の全勝優勝史上最年少全勝優勝)。場所後に協会横審貴ノ花横綱昇進諮問をし、約2時間審議の末、最後無記名投票結果11人の委員中6人が賛成したが、横審内規である「3分の2上の賛成」に及ばず横綱昇進否決された。審議前から反対明言していた一力一夫は「諮問があるとは思っていなかった。先場所は準優勝でもないのに、どこを見て内規則していない。そのこと理事長も百も承知のはず。内規無視する覚悟決められということでしょう。」と協会態度強く批判し反対票を投じた明言した加藤巳一郎は「協会立場本人成長ぶりはよくわかるが、横綱絶対的なものでないといけない。連続優勝できないということは何か欠けるものがあるからだ。」と述べ、他の反対票を投じた委員も「横綱になれる力を充分持っているのだから、あせる必要がない。」としてもう一場様子を見るよう主張した。 それでも、貴ノ花から「貴乃花」と改名し迎えた11月場所でも他を全く寄せ付けず双葉山以来の「大関で2場所連続全勝優勝」を果たし、先場所からの30連勝達成した千秋楽結びの一番での曙との一番は49秒の死闘の末に、土俵際貴乃花右上投げ逆転勝利し、「これぞ、名勝負というのだろう。」「角界第一人者の座をかけた攻防はまさに互角一年納めの場所を締めくくるにふさわしい死闘だった。」と称賛された。

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大関時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 05:43 UTC 版)

武蔵丸光洋」の記事における「大関時代」の解説

新大関1994年3月場所序盤5連勝したものの、その後黒星増えて9勝6敗に留まる同年5月場所では終盤まで優勝争ったが、千秋楽貴ノ花当時)に敗れ12勝3敗の優勝次点終わった。しかし続く7月場所では、千秋楽貴ノ花下手投げ倒して大関として1987年5月場所大乃国以来となる15全勝念願幕内初優勝達成武蔵丸と同じハワイ出身先輩である高見山小錦、曙もなし得なかった史上初の外国出身力士による幕内全勝優勝果たした初優勝遂げた際、武蔵丸の目は真っ赤に充血し、「うれしいよ」を繰り返すばかりで、後は言葉にならなかったと後年に伝わる。優勝パレードでは大雨暴風稲光見舞われずぶ濡れ凱旋となった12勝の優勝次点に続く全勝優勝と、横綱昇進基準である「二場所連続優勝もしくはそれに準ずる成績」に値する実績だったが、当時昇進目安厳しかったこともあり殆ど話題にならなかった。次の9月場所は初の綱獲りとなったが、結局11勝4敗に留まり失敗。尚同場所11日目琴の若戦では、最高位横綱力士として平成以降唯一の水入り経験した1994年7月場所千秋楽相撲武蔵丸にとって生涯最高の相撲である。本人引退後に「本当に強い力士がいっぱいいた。あのとき関脇小結なら、今は横綱大関じゃないか魁皇なんて絶対に横綱だね。そんななかでの全勝だから、価値があるんだよ」と当時幕内上位の層の厚さ語っていた。 その後終盤まで何度も優勝争いに加わる成績を残すが、横綱の曙・貴乃花らにあと一歩届かない成績続いた。さらに左肩関節負傷影響により、1996年初場所から3場所連続で9勝6敗の成績続きその後10前後落ち着いてしまい低迷した。その低迷挽回すべく右差しで腕を返して寄る相撲変えたのが功を奏しこれまで分の悪かった貴乃花戦は1997年平成9年以降12勝7敗と勝ち越し晩年は5連勝して終わっている(但し優勝決定戦を除く)。 1996年1月22日日本国籍取得し本名を「武蔵丸光洋」としている。 貴乃花初日から全休した1996年11月場所は、11勝4敗ながら幕内歴代最多数となる史上初の5人(ほか曙・若乃花貴ノ浪魁皇)での優勝決定巴戦となった1回戦武蔵丸若乃花寄り倒し魁皇すくい投げ貴ノ浪と共に巴戦進出へ。そして巴戦でも武蔵丸1回戦不戦勝の曙と、そして最後貴ノ浪それぞれ寄り切り下して2連勝14場所ぶり2回目幕内優勝達成する1日50番の稽古おかげで持久力が十分備わっていたため、決定戦は苦にならなかったという。尚15日制定後で11勝の優勝幕内最少勝星タイ記録1972年1月場所の栃東以来24年ぶり2度目)である。ちなみに武蔵丸全勝から12勝までの優勝経験しており、11勝~15勝の5通り勝利数での優勝経験した唯一の力士である(2022年現在)。続く1997年1月場所は2回目の綱獲りだったが、優勝若乃花及ばす惜しくも12勝3敗に留まった。貴乃花途中休場した1998年平成10年1月場所混戦となったが、12勝3敗で武蔵丸が7場所ぶり3回目幕内優勝同年3月場所3回目の綱獲りに挑むが、前半戦取り零し響いて8勝7敗と又しても失敗終わった1999年平成11年1月場所は、序盤から中盤にかけて黒星先行幕内昇進後初の負け越し懸念されたが終盤持ち直し、7勝7敗で迎えた千秋楽武蔵丸貴乃花土俵際突き落とし辛うじて8勝7敗と勝ち越した。 その次の3月場所は、場所終盤11日目から当時の3横綱貴乃花若乃花・曙)が全員休場し横綱不在となってしまった(ほか新大関千代大海関脇武双山らも途中休場。なお3横綱全員休場は、1950年1月場所羽黒山東富士照國以来49年ぶり)。この異常事態当時時津風理事長(元大関豊山)が異例謝罪会見行っている。それでも武蔵丸貴ノ浪当時2大関奮起し千秋楽両者12勝2敗同士相星決戦となって所を盛り上げた。その千秋楽結びの一番武蔵丸貴ノ浪寄り切って完勝13勝2敗で4度目幕内優勝果たした。また武蔵丸は同場所で、幕下時代から続く通算連続勝ち越し51場所となり、当時北の湖が持つ50所 を更新する新記録達成した。 翌5月場所武蔵丸通算4回目の綱獲りとなった。場所前半平幕力士に2敗を喫して心配されたが、その後連勝続けて優勝争い先頭に立ち、千秋楽11勝3敗と1差で追う横綱曙との対戦となる。その千秋楽結びの一番は、武蔵丸が曙を押し倒し13勝2敗の成績5度目幕内優勝決める。また大関として2場所連続優勝果たし、ついに5月場所後に横綱昇進となった連覇果たしたものの、直近3場所合計34勝(平成時代横綱昇進者では最低記録)の成績3月場所が3横綱不在だったことに注文付いたが、当時通算52場所連続勝ち越し中だった安定感と、優勝5回の実績評価された形で昇進認められた。なお大関32場所目での横綱昇進は、琴櫻と並ぶ史上1位タイスロー昇進だった。因みに大関在位32場所(更に新入幕から関脇以下のを含めて46場所)の間負け越し角番一度経験しなかったが、これは大相撲史上最長記録 である。またこの昇進最後に2017年平成29年1月場所後に昇進決めた稀勢の里まで、日本国籍を持つ横綱2016年平成28年)まで17年渡り1人誕生しない状態が続いていた。 本人は大関時代に低迷していたのは酒の飲み過ぎのせいだと考えており、断酒して相撲集中したらすぐに横綱になった語っている。

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大関時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 05:05 UTC 版)

朝潮太郎 (4代)」の記事における「大関時代」の解説

大関在位3場所目の1983年9月場所は、7日目まで6勝1敗と好調だった。しかし8日目横綱隆の里戦で上手捻り敗れた際、「右膝内側側副靱帯損傷」の大怪我負い途中休場、翌11月場所全休通常ならば大関で2場所連続負け越しすれば関脇陥落となるが、同1983年5月場所から公傷制度大関にも適用されるその後2003年11月場所限り公傷制度廃止)事が決まっており、朝潮11月場所全休公傷認められたため、運良く陥落免れたまた、大関地位公傷制度適用されたのも、朝潮第1号である。初の大関角番となった1984年昭和59年1月場所は、10勝5敗と勝ち越して角番脱した大関でも連相撲ぶりが目立っていたが、1984年頃より従来突き押し主体から、左四つ右上手で寄る相撲変わっていき取り口的にも安定するようになった1985年昭和60年3月場所では、6日目から連勝重ねて勢い乗り千秋楽大関若嶋津との12勝2敗同士相星決戦制し13勝2敗の成績第二故郷大阪でようやく悲願幕内優勝果たした。その若嶋津戦では、当たって右上手を十分に引いた朝潮が、正面からグイグイ寄り進み上手投げから186体重預けるように寄り倒す会心取り口若嶋津撃破。この1985年3月場所最後に現役引退表明した兄弟子富士櫻への餞となった。この時期には、相手当たった衝撃で額から血を流すことがしばしば見受けられ流血も顔を二分化するのような凄まじいものであった本人は「白星欲しさに」だというが後に「あんなことしても痛いだけなんですけどね」と苦笑しながらコメントしている。その優勝した場所でも、流血して勝ちを取ったのような勢いがあり、この頃朝潮横綱正面から打ち負かすほどの、最強強さ発揮していた。因みに朝潮最後の餞にと富士櫻優勝パレード旗手指名している。旗手通常なら幕内力士務めるが、引退時の富士櫻十両であったため、十両力士幕内優勝パレード旗手務めるのは異例であった。なお、朝潮幕内優勝後述通り、この1985年3月場所唯一である。 しかし優勝所以後、10勝以上を挙げたのはわずか2度で、14日目か千秋楽勝ち越し懸ける場所が多くなっていった。大関時代の後半成績も8勝や9勝がほとんどで、「クンロク大関」と皮肉られた。それでもライバルとして横綱では隆の里千代の富士(但し千代の富士関脇昇進後は差が開いた)、大関では琴風若嶋津北天佑などがいた。 また、上記のように、14日目を終え7勝7敗で迎えた場所の勝率が高いこともあり、やくみつる昭和63年の「おちゃんこクラブ」のネタとして「横綱四態」の表題で、千代の富士を「実力横綱大乃国を「番付横綱鳳凰を「稽古場横綱」と描いたオチ朝潮を「千秋楽7勝7敗横綱」と皮肉と揶揄込めて描いているが、引退前場所、カド番として最後に勝ち越した場所は前半、6勝1敗と好調ながら中盤以降連敗し14日目に勝ち越し決めた千秋楽に、敗れ8勝7敗に終わっている。 稽古不足の影響からか、大関晩年押し相撲には必須の出足鈍り、引きや叩きに対して脆く前に落ちやすくなっていた。そしてそれが顕著に現れたのが、当時突き押しのみが得意だった100kgを僅かに上回る程度幕内軽量級若手力士寺尾との取り組みで、寺尾がっぷり四つ組まれ電車道横綱相撲取られる失態犯した。これはある意味朝潮致命的な弱点で、受けに回るとあっけなく寄り切られるという巨漢力士似合わぬものであった元号昭和から平成変わったわずか2場所目の、1989年平成元年3月場所大関角番では無かったものの、初日から4連敗喫し体力限界理由に、4日目寺尾戦を最後に現役引退表明。なお当初朝潮自身は「5日目孝乃富士戦を現役最後の一番にしたい」と申し出たものの、相撲協会からは「死に体土俵上がる事は許されない」と認められず、5日目孝乃富士戦は結局不戦敗となったまた、大関在位36場所は、当時貴ノ花初代)50場所に次ぐ史上2位だった(現在史上8位)。 成績大関止まりであったが、当時横綱大関陣の優勝番付昇進朝潮活躍大きく作用している点も見逃せず、対戦力士にとって優勝昇進においてベンチマーク存在となっていた。北の湖前述通り朝潮再三敗れたために、連勝何度も止められている上、千代の富士にも幾度も優勝譲っている。1981年昭和56年1月場所では関脇千代の富士全勝千秋楽迎えた北の湖は朝汐に負けて13勝1敗、千秋楽北の湖千代の富士北の湖勝った決定戦千代の富士本割お礼とばかり横綱を這わせ初優勝、場所後大関昇進した同年7月場所で横綱昇進決めたのも、全勝北の湖が朝汐に突き倒されて、千秋楽相星決戦となった伏線があり、これもまさしく朝潮暗躍結果である。 因みに本場所支度部屋での朝潮面白キャラクターそのもので、その日勝敗ついてよマスコミ冗談交えて談笑して雰囲気盛り上げたものであった。のちに相撲協会広報部長就いたのも、持ち前話術をうまく生かしていたものと言えた。「高砂部屋芸能部長」を自認しCMにも出演、また1984年にはラジオシティレコードから「ほたる川」で歌手デビューするなどの活動もあった。現役時代稽古嫌いなどと一部からは指摘されていたが、実際に富士櫻高見山半殺しに近い猛稽古付けられており、大関昇進後5代高砂から稽古中に当たり前のように竹刀叩かれていたところを見た後援者が「朝潮はもう大関なんだから竹刀で叩くのをやめろよ」と意見したこともある。 いしいひさいち4コマ漫画でも主人公となり、『ワイはアサシオや』という単行本になったほど。彼のキャラクターがいかに魅力的だったかがわかる。ちなみに自身この漫画ファンで、いつも読んで爆笑していたという。また、木村えいじの漫画達磨』の、達磨親方も本人の公認済。器の大きさを表すエピソードである。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 19:18 UTC 版)

旭國斗雄」の記事における「大関時代」の解説

大関になってからも膵臓炎影響で満足な成績出せる場所は多くなかったが、1977年9月場所は誰もが驚く絶好調連戦連勝横綱北の湖優勝争い先頭併走直接対決には敗れ優勝はできなかった(北の湖全勝優勝)が、堂々の14勝1敗。しかし綱獲りとなった11月場所は8勝7敗に終わり横綱昇進果たせなかった。 平幕など下位相手には技量力量見せつけ、比較勝ち星量産できたものの、横綱・大関との対戦になる場所後半負け込むことがほとんどだった。横綱との対戦とりわけ苦手にしていたのは輪島であり、対戦成績は4勝31敗(決定戦含む)と大きく差をつけられた。大関昇進決めた1976年3月場所でも、本割優勝決定戦両方輪島敗戦した。また、北の湖との対戦も7勝27敗と大きく差をつけられた。この7勝のうち、6勝は大関昇進前の勝ち星であり、昇進以後1977年5月場所に一度勝利したのみで、全く勝てなくなった前述通り大関在位中に千秋楽まで優勝争った場所でも北の湖負けたことで優勝逃した。その他、大関貴ノ花にも分が悪く通算1126敗と大きく負け越し不戦敗を含む。両者大関同士では対戦成績は4勝13敗)。 それでも持病膵臓炎で度々入院治療続けながら、1978年3月場所7日目魁傑との取組で、4分26秒の大相撲水入りして3分25秒で勝負がつかず再水入り両者休憩時間与え為に当日結びの一番北の湖 - 青葉山戦)を先に行った後、10分後改め取り直し。その取り直しの一番もまた三度目水入りとなる寸前の2分33秒で掬い投げ敗北喫したものの合計1019秒の大熱戦で、場所前に退院したばかりの旭國にとっては正に土俵上で死ねたら本望」の言葉通り相撲であった。この相撲打ち出し18時25分達しNHK相撲放送延長新記録となっている。 1979年9月場所7日目同期生である新横綱三重ノ海との対戦負傷して途中休場後、再起難しいと考えて引退した現役引退際し、「一度優勝したかった」と名残惜しそうに述べていた。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 06:40 UTC 版)

大乃国康」の記事における「大関時代」の解説

大関昇進後12勝3敗・11勝4敗と着実に星を残して、「昭和大横綱千代の富士に次ぐ実力ナンバー2目され次の横綱候補筆頭だった。1986年1月場所では13日目まで1敗で、星一つの差を付ける千代の富士との14日目の直接対戦幕内初優勝賭けたが、極度緊張から力を全く出し切れずに敗れ千秋楽北尾(のち第60代横綱双羽黒)の引きに敗れて12勝3敗に終わり優勝決定戦すら出場できなかった。翌3月場所初めての横綱挑戦与えられたものの、序盤で2敗を喫したことで9勝6敗に終わりチャンス逃した同年5月場所では、逆鉾寄り切られた際に右足骨折する重傷負った。それでも休まず11勝4敗の成績挙げたが、この無理が影響して1年間低迷する同年9月場所は7勝1敗で迎えた9日目から失速して8勝7敗。次の11月場所10勝5敗だったものの、翌1987年1月場所から2場所連続で9勝6敗と期待裏切り続けたそれまで新勢力一番手と見なされてきたが、この過程優勝では北勝海に、横綱昇進では双羽黒に、共に大乃国より1年年下の「花のサンパチ組」(昭和38年生まれ)にそれぞれ先を越されてしまった。同年11月場所千代の富士土俵際投げ破った際に失神させたり、初優勝目指す双羽黒に土をつけたり1987年3月場所優勝決めた北勝海を破るなど存在感見せつけたが、下位力士への取りこぼしは相変わらず多かった。 しかし、1987年5月場所初日から見違えるような安定した相撲で連勝続けて千秋楽当時横綱昇進掛かっていた北勝海下して15全勝初の幕内最高優勝果たした横綱昇進かかった同年7月場所は千秋楽では前場所とは逆に、この場所で横綱昇進した北勝海敗戦喫し12勝3敗でチャンス逸したものの横綱挑戦継続され次の9月場所13勝2敗と順調に星を重ねて場所後に第62横綱への昇進果たした杉並区阿佐ヶ谷南の放駒部屋行われた横綱昇進伝達式では、「初一念忘れず相撲道に精進します」と口上述べた1987年10月1日二所ノ関一門親方が揃う中、放駒部屋綱打ちが行われた。横綱土俵入り指導は、佐渡ヶ嶽当初行っていたが、途中から一門総帥である二子山土俵にあがり直々に土俵入り指導、「ウっと四股踏んで、ダッと腰を下ろした拍手が来るから、そしたらググっと摺り上がれ。」「すぐ摺り上がったらだめ、拍手を待つくらいの余裕を持たなきゃ。」「好きにやればいい。横綱がやれば、横綱土俵入りなんだ。」と助言受けた昇進直前の2場所は全て優勝次点だったが、直前3場所通算成績40勝(5敗)で近年では貴乃花41勝)に次ぐ高い数字当時56横綱2代若乃花と並ぶ最高タイ記録であった。ただし、1987年11月場所後に双羽黒師匠立浪親方(元関脇安念山)らとの衝突の末廃業事件起こしたきっかけに、その後横綱昇進条件は(原則として大関地位で2場所連続優勝」に事実上変更されるそれ以降、第63代・旭富士から第70代・日馬富士の8力士全て大関2場所連覇」での横綱昇進だったが、2014年5月場所新横綱の第71代・鶴竜14勝(優勝同点)・14勝(優勝)と、27年ぶりに大乃国以来連覇無しでの横綱昇進となっている。

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大関時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 09:30 UTC 版)

東富士欽壹」の記事における「大関時代」の解説

第二次世界大戦中一時期は、出羽海部屋身を寄せて巡業稽古を共にした。そのまま移籍する話も持ち上がり当人出羽海側も移籍のつもりだったが、高砂一門総帥である前田山がこれを認めなかったことで、東富士半ば脱走するように出羽海部屋を去らなくてはならなかった。しかし、この一件背景知らない出羽海力士との間に遺恨を残すことになり、これも本場所で実力発揮しきれなかった一因考えられている。 1945年6月場所は、戦局の悪化によって旧・両國国技館にも空襲があり、それによって天井に穴が開いた状態で開催されたことで、晴天のみ7日間興行となった東富士はこの場所を羽黒山政司佐賀ノ花勝巳の1横綱1大関はじめ対戦のあった三役力士はすべて破って6勝1敗の好成績残した。この1敗は6日目、朝からの中止決めつけて昼から酒を飲み予定通り開催知って慌てて国技館駆けつけ出場平幕十勝岩豊うっちゃり敗れたのである。この失態によって優勝はこの場所7戦全勝だった備州山大八郎に浚われたが、前場所の9勝1敗(優勝同点)に続く好成績だったことで関脇を2場所で通過戦後最初の場所となった1945年11月場所大関昇進する新大関の場所は全勝羽黒山敗れただけの9勝1敗の星を残したが、1946年巡業右足重傷負い直後11月場所平幕戦だけで3敗するなど7勝6敗。これ以降後遺症成績が不安定となる。1947年6月場所では9勝1敗で羽黒山前田山力道山とともにこの場所からはじまった優勝決定戦出場するが、1回戦前田山敗れ、続く11月場所新鋭千代ノ山叩き込み敗れるなど6勝5敗に終わる。 1948年5月場所では力道山うっちゃり敗れただけの10勝1敗で初優勝力道山敗れた1番は、力道山立ち合いから猛烈に突っ張って出て東冨士は左を差すと一気出て土俵際、腰を落として寄り倒そうとしたが、力道山必死にこらえ、力を振り絞って右へうっちゃった、という流れであった。同10月場所は増位山大志郎本割決定戦ともに敗れて優勝同点だったもののやはり10勝1敗で、場所後に横綱免許授与された。これは吉田司家授与した最後横綱免許となった次に昇進した千代の山からは協会授与するようになった)。

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