魁傑將晃
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魁傑 將晃(かいけつ まさてる、1948年2月16日 - 2014年5月18日)は、山口県岩国市で花籠部屋に所属した大相撲力士。本名は西森 輝門(にしもり てるゆき)。最高位は東大関。得意手は突っ張り、左四つ、寄り。身長187cm、体重129kg。黒いダイヤや怪傑黒頭巾、クリーン大関[2]の異名がある。引退後は年寄・放駒として放駒部屋の師匠となり、日本相撲協会第11代理事長(在任期間:2010年8月-2012年1月)を務めた[1]。
注釈
- ^ 因みに部屋は当時の日大柔道部の練習場の隣にあったという。
- ^ 媒酌人は衆議院議員の安倍晋太郎(安倍晋三の父)夫妻。
- ^ 小結の優勝は、1957年夏場所の安念山以来、17年ぶりの事であった。
- ^ 取り組み日数(現・15日)の3分の2以上の勝ち星(=10勝以上)を上げる事。
- ^ 但し2014年5月場所に昇進した第71代横綱・鶴竜の直前2場所は14勝(優勝同点)+14勝(優勝)と、弟子の大乃国以来27年ぶりに大関で2場所連続優勝を果たせずに横綱昇進となっている。
- ^ 但し2012年5月場所の番付では、琴欧洲・日馬富士・把瑠都・琴奨菊・稀勢の里・鶴竜と、大相撲史上初めての「6大関」となっている。
- ^ 2012年5月29日付の朝日新聞には元三役の親方(匿名)が「公益法人制度改革対策委員会示された特別功労金は1名跡3000万円。この額では自殺者が出る」という内容の発言を行った様子が掲載されており、「1名跡2000万円」という放駒案と比較する1つの資料と言える。
- ^ 長谷川と優勝決定戦
- ^ 北の湖と優勝決定戦
- ^ a b 角番(全2回)
- ^ 関脇陥落
- ^ 元大関で初の平幕優勝
- ^ 大関特例復帰制度にあずからずに大関再昇進
- ^ 関脇再陥落
出典
- ^ a b c d e f g h i ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p23
- ^ 角界「異名」列伝 ウルフの時代 時事ドットコム
- ^ a b c d e 中央公論1979年3月号p346~351「九百三十七日間の土俵人生 惜しまれつつ引退したマジメ大関の感懐」魁傑將晃
- ^ 魁傑死去 きまじめ一貫 八百長撲滅執念 nikkansports.com 2014年5月19日9時49分 紙面から
- ^ 雑誌「大相撲」 2001年5月号P.101
- ^ a b c d 石井代蔵『大関にかなう』(文春文庫、1988年)
- ^ 佐竹義惇「戦後新入幕力士物語」(ベースボール・マガジン社)
- ^ 『大相撲ジャーナル』2017年12月号p44
- ^ ベースボールマガジン社『大相撲戦後70年史』18ページ
- ^ a b 中日新聞社『土俵一途に 心に残る名力士たち』心に残る大関列伝・魁傑)
- ^ a b (追想録)西森輝門さん(前日本相撲協会理事長・放駒親方) 八百長問題で苦衷の決断 日本経済新聞 2014/7/4付
- ^ 「大関にかなう」P224
- ^ 「負けるも勝ち」P45
- ^ “見事だった大栄翔に比べ「武士道」貴景勝にはガッカリ…「足首の痛み」休場の常とう手段にだまされません【北の富士コラム】:中日スポーツ・東京中日スポーツ”. 中日スポーツ・東京中日スポーツ. 2021年2月1日閲覧。
- ^ a b 週刊ポスト2014年6月6日号141-143頁
- ^ a b 向坂松彦監修『新・相撲のススメ』雄鶏社、1992年、P182「ヨネスケの知ってて欲しい名力士15人」での魁傑の項より。
- ^ 杉並区立郷土博物館編「大相撲杉並場所展 : 阿佐ケ谷勢その活躍と栄光の歴史」1991.11
- ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p76
- ^ 『大相撲中継』2017年9月16日号 p60-61
- 駒響は相撲が嫌いであったが、中学1年の正月に放駒に東京見学へ連れて行ってもらい「相撲で成功したら贅沢できるんだ」と思って柔道部に入り角界入りに備えた。1994年3月場所で中学卒業と同時に初土俵。1998年9月頃。2年先輩の駿傑とトレーニングに通い始めたのがきっかけで左前褌を取って右四つ寄り、上手投げの相撲も身についてきた。ところが2001年11月場所後、夜遊びで増えた借金を返済するために相撲を引退。道路舗装工事の会社に勤めて借金を返済し、その後運送会社に勤務。2012年頃から兵庫県相撲連盟に所属し、2016年は国体にも出場した。
- ^ a b c 読売新聞2023年3月8日24面「相撲論 師匠 鬼の稽古に親心」第62代横綱大乃国 芝田山親方
- ^ a b c d 日本経済新聞2014年5月19日「評伝 誠実・不屈貫いた苦労人」
- ^ 神戸新聞2014年5月20日1面正平調
- ^ 「相撲」1992年4月号P127
- ^ a b 相撲春秋 拝啓 放駒元理事長 大相撲復活の礎はあなたが作った NumberWeb2015年10月20日
- ^ a b 相撲春秋 拝啓 放駒元理事長 この相撲ブームを見たらきっと NumberWeb2015年10月21日
- ^ 武蔵川理事長辞任、後任に放駒理事…相撲協会 読売新聞 2010年8月12日閲覧
- ^ 『大相撲ジャーナル』2014年4月号20頁
- ^ 取得に億単位の金がいる相撲の年寄株 協会理事長も「改革は無理」 (2/2ページ) NEWSポストセブン 2021.01.10 11:00 (週刊ポスト2021年1月15・22日号、2021年1月10日閲覧)
- ^ “角界を救った「クリーン魁傑」”. 東スポweb. (2014年5月20日) 2020年2月19日閲覧。
- ^ 「[追悼]放駒親方 八百長を憎んだ男の「角界への遺言」 角界が存続できているのは故放駒親方のおかげ」と相撲記者 2014年6月6日号週刊ポスト
- ^ a b c 2014年5月19日読売新聞「評伝 不屈の精神大関復帰 改革バランス感覚発揮」
- ^ 放駒親方 辞めさせた力士に申し訳ないと天下りや解説職固辞 2014年6月6日号週刊ポスト
- ^ a b c 朝日新聞2014年5月19日「評伝 大相撲救った孤高の人」
- ^ 間垣部屋閉鎖、放駒部屋力士は芝田山部屋へ SANSPO.COM 2013年2月7日閲覧
- ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p40
- ^ 魁傑死去 きまじめ一貫 八百長撲滅執念 日刊スポーツ 2014年5月19日
- ^ 大相撲:放駒前理事長死去66歳 八百長問題に対処 毎日新聞 2014年5月18日
- ^ 西森さん、死因は虚血性心疾患=大相撲 時事ドットコム 2014年5月19日
- ^ “不屈の大関・魁傑”放駒前理事長、急死 唯一の平幕落ちから大関復帰、八百長問題解決に奔走 2014年5月19日6時0分 スポーツ報知
- ^ 惜しむ声あふれる…松ケ根親方「おかげで協会立ち直った」 Sponichi Annex 2014年5月19日 05:30
- ^ 日馬ら600人参列、戒名に「魁傑」入る…先代放駒親方・西森氏の通夜 スポーツ報知 2014年5月23日閲覧
- ^ 300人が放駒親方しのぶ 元大関魁傑、都内で告別式 産経新聞 2014年5月24日閲覧
- ^ 花籠昶光『横綱づくりの秘伝 : 私の相撲自伝』 ベースボール・マガジン社 P138
- ^ 2014年5月20日朝日新聞「天声人語」
- ^ 魁傑と輪島が一緒にちゃんこを食べていた頃 クオリティ埼玉2014年6月3日
- ^ 相撲春秋 拝啓 放駒元理事長 この相撲ブームを見たらきっと NumberWeb2015年10月21日
- ^ a b c d e f g くろだたけし (1982年10月20日). “名選手ものがたり35 日大西森(魁傑)の抜群3段 -41年講道館春季紅白試合-”. 近代柔道(1982年10月号)、67頁 (ベースボール・マガジン社)
- ^ 元大関魁傑急死…北の湖理事長悼む DAILY SPORTS ONLINE 2014年5月18日
- ^ 「負けるも勝ち」P68~69
- ^ 「大関にかなう」P198~199
- ^ スポーツ報知2017/9/6「芝田山親方、トークショーで熱弁 千代の富士戦の秘話明かす」
- ^ a b 相撲春秋 拝啓 放駒元理事長 この相撲ブームを見たらきっと NumberWeb2015年10月21日
- ^ 誠実・不屈貫いた苦労人 元大関魁傑が死去 日本経済新聞 2014/5/18 23:43
- ^ 国技館に前理事長しのぶ声広がる 「あと10年は生きてほしかった」 MSN産経ニュース 2014.5.19 19:44
- ^ 週刊現代1977年2月p26~29「独占対談 若三杉と魁傑!「どっちが女にモテルかも勝負だ」
- ^ 2014年5月20日 日刊スポーツ 記者席から デレデレじいちゃんに変貌した矢先
- ^ 『ACC CM年鑑'79』(全日本CM協議会編集、誠文堂新光社、1979年 53頁)
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