中央線快速
中央線快速
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中央快速線201系 電動幕式大型列車種別表示器 モハ201-24霜取パンタ搭載車画像左側が霜取パンタグラフ 中央線快速用分割編成中間組込先頭車 H7編成さよなら運転2010年10月17日 上野原 保留車 クハ201-12014年11月8日 豊田車両センター 中央線快速では、1979年8月20日に試作車の営業運転が開始された。1981年8月より量産車の導入が開始され、昭和55年度第1次債務で50両(4両編成5本・6両編成5本)、昭和55年度第2次債務で50両(4両編成3本・6両編成3本・10両編成2本)、昭和55年度第3次債務で100両(10両編成10本)の計200両が落成し、三鷹電車区・豊田電車区(現・豊田車両センター)に配置された。車体塗装色はオレンジバーミリオン(朱色1号)である。 これにより103系と101系の置き換えが進められ、中央線快速の103系は中央・総武緩行線や南武線の101系置き換えに転用され、1983年3月3日に中央線快速での運転を終了した。101系は1985年3月14日改正で201系への置き換えを完了し、中央線快速の201系統一が完了した。 快速系列車と早朝・夜間の東京駅発着各駅停車で運用された。2008年3月14日までは富士急行大月線・河口湖線にも乗り入れていた。富士急行線の地上設備側の制約により、6両編成+4両編成による10両編成中の4両付属編成のみ乗り入れが乗り入れていた。2010年までに営業運転を終了した(後述)。 10両単独の編成(T編成)と6両+4両の分割可能編成(H編成)の2種類の編成があり、青梅線・五日市線・八高線(拝島駅 - 高麗川駅間)と富士急行線への乗り入れの関係で運用が分かれていた。2008年1月にT編成が、2010年10月にH編成が営業運転を終了した。2004年3月までの武蔵小金井電車区所属編成は、分割可能編成・10両単独編成とも白地赤文字の編成札を使用していたが、豊田電車区(現・豊田車両センター)への移籍時に10両単独編成は黄緑地白文字の編成札に交換した。 狭小限界トンネルのある中央本線高尾以西の乗り入れに対応するため、1984年に武蔵小金井電車区のモハ201-161 - 163にパンタグラフに折り畳み高さの小さい試作型のPS918形が装備され、3月5日から7日にかけて甲府駅までの入線試運転を行っている。翌1985年10月から臨時列車で大月駅への乗り入れが開始された。 国鉄末期の1986年11月1日のダイヤ改正より、定期列車としてへの大月駅への乗り入れが開始された。高尾以西への乗り入れに備えて、分割対応編成のパンタグラフがPS21形からPS24形(PS918形の量産版)に換装された。当初は高尾駅で分割併合の上で基本6両編成のみが大月に乗り入れていたが、後年になって高尾駅での分割併合は行われなくなっている。 JR化後の1988年12月1日のダイヤ改正により、青梅線の青梅駅まで乗り入れる「青梅特快」が設定され、従来の高尾方面の特別快速が「中央特快」となった。1990年3月10日のダイヤ改正では、大月から富士急行に乗り入れ、河口湖駅までの直通運転が開始された。1993年4月10日のダイヤ改正より、朝ラッシュ時に途中の国分寺 - 新宿間をノンストップで運転する「通勤特快」が新設された。 1992年より、中央線用編成の先頭車に停車駅通過防止装置の設置が行われた。停車駅のホームに接近すると、表示灯が点灯しアラームが鳴る。 1996年3月16日のダイヤ改正で八高線の八王子 - 高麗川間が電化され、中央線快速の201系による拝島 - 高麗川間への直通運転が開始された。ラッシュ時に東京 - 拝島間で五日市線直通列車と併結し、拝島での分割併合により付属編成が高麗川へ乗り入れた。 1997年10月12日に発生した大月駅列車衝突事故では、大月駅を通過中の特急「スーパーあずさ」13号(E351系)に入換中の201系6両編成が衝突し、両方の車両が脱線した。201系はクハ200-116が復旧まで長期間使用できなくなり、車両不足を補うため三鷹電車区の中央・総武緩行線用201系の1編成が武蔵小金井電車区に貸し出され、オレンジに塗装変更の上で使用されていた。 1997年12月のダイヤ改正で高尾 - 大月間の初発電車に201系が使用されることとなり、武蔵小金井電車区の分割編成の8号車モハ201形の後位寄りに霜取り用パンタグラフが増設された。当初はモハ201-24・87・179・185・206の6両が対象で、菱形のPS24形が増設された。2001年度に追加で改造されたモハ201-90は、シングルアーム式のPS35C形が増設されており、1両に菱形とシングルアーム式の両方が搭載される唯一の車両となった。 T編成のPS21形パンタグラフは、降雪によるパンタグラフ降下対策として2000年よりシングルアーム式のPS35C形に換装された。これは、関東で大雪となった1998年1月8日にダイヤの乱れで列車が長時間停車した際に、雪の重みでパンタグラフが上がらなくなった車両が続出したことを受けてへの対策である。このPS35C形への換装により、中央快速線の201系全編成で高尾以西への乗り入れが可能となった。 当初は101・103系と同様に、先頭車に「特別快速」などの大型種別表示板を掲出していたが、中央線快速の201系統一完了により方向幕での種別表示が完備されたことから1986年3月改正で種別表示板の使用を廃止した。1987年5月からは差し込み式の種別表示板が復活し、先頭車にヘッドマーク受けが設置された。1992年からは1・10号車は電動幕式の種別表示器へと交換された。同年11月からはATSの車上子を保護する目的でスカートの設置も開始されている。 分割可能編成の連結部に組成される先頭車には差し込み式の種別表示枠が設置されており、自動解結装置が装備されている。クハ200-87は大月駅列車衝突事故の被災車の代車として10両編成の先頭に立っていた時期があり、中間先頭車で唯一電動幕式大型列車種別表示器が装備された。2005年以降、6+4編成(H編成)の4・5号車の列車種別表示枠が撤去された編成があった。 2004年3月13日のダイヤ改正より、武蔵小金井電車区の201系が豊田電車区に移管され、中央線快速の201系の配置は青梅・五日市線用も含めて豊田電車区に集約された。豊田電車区は2007年に豊田車両センターに改称されている。 2004年12月から2005年3月までにドアステッカー下部に「ひらくドアにちゅうい」ステッカーが貼付された。 中央線快速運用では東京都から山梨県にまたがる長距離高速運転や日中も走行する機会が多く、累積走行キロの伸びや機器などの老朽化が進むとともに、電機子チョッパ制御の保守部品の調達も困難になった。中央快速線では2006年(平成18年)よりE233系が投入されることになり、同年12月26日よりE233系の営業運転が開始された。これに伴って運用を離脱した201系は、主に中央本線・篠ノ井線経由で編成単位の自力回送により長野総合車両センターへの廃車回送が行われた。 201系は付属4両編成が東京方なのに対し、E233系は高尾方に組成された。2007年3月18日のダイヤ改正によるE233系の分割運用の開始に伴い、共通運用となる201系の分割編成の一部で付属編成を高尾方とする編成替えが行われ、H編成7本を6+4から4+6に組み替えた。これらの編成は、3月下旬までにH1編成を除いて編成番号が振り直された。 組替対象外のH編成はダイヤ改正をもって分割不可能編成となり、3月下旬までにT編成に編入された。貫通編成の編成番号も順次改称され、大半の編成が元の番号+100とされた(例・T1→T101)。 10両貫通のT32(クハ201-58以下10両)・T130(クハ201-56以下10両)の2編成は、京葉線への転用により京葉車両センターへ転出した。 T110「2代目」編成(クハ201-117以下10両)は、2007年8月末に一旦長野へ回送後、翌9月1日の全国新作花火競技大会での臨時列車に使用され、豊田へ戻らずに廃車回送された。T116編成(クハ201-54以下10両)は、サハ201-55を抜いた9両編成で2007年9月に廃車回送され、抜かれたサハ201-55は209系サハ209-901・113系モハ113-1085とともに脱線試験に使用された。 2007年11月に回送されたT133編成(クハ201-60以下10両)は、故障を起こした2両(モハ201-141+モハ200-141)が青70編成(クハ201-152以下6両)とともに先に回送され、残る8両は後日回送された。 2008年1月17日のT112編成の廃車回送をもって、中央快速線の10両貫通編成が消滅した。H1編成(クハ201-1以下10両)は運用離脱後に組替え、2008年1月31日にトップナンバーを含まない6両編成で廃車回送された。2008年6月19日、H1編成で残った4両のうちクハ201-1を除く3両が、青梅・五日市線用編成で最後まで残った青3編成に組み込まれ、7両編成で廃車回送された。 三鷹駅 - 立川駅間の連続立体化工事中は、武蔵小金井駅でのホームでの折返しが不可能になったため、一時的に運用本数を増やす必要が生じた。これに伴う予備車を確保するため、E233系の投入完了後もH4(クハ201-107以下10両)・H7(クハ201-128以下10両)の2編成が残存した。両編成とも6+4の10両編成であるが、分割せずに10両固定運用で使用された。 JR東日本八王子支社では、2010年2月1日を「201系の日」とし、同日より「中央線201系・愛されて30年」キャンペーンが開催された。キャンペーンは同年3月31日まで展開され、期間中は残存するH4・H7編成の先頭部に「愛されて30年」の記念ヘッドシールが貼り付けられた。 残存編成も工事が終了する2009年秋に中央線での営業運転を終了する予定であると東京新聞で報道されていたが、最終的に2010年6月20日にH4編成が、10月17日にH7編成が、それぞれ長野総合車両センターへの廃車回送を兼ねて中央本線豊田発篠ノ井線松本行きのさよなら運転を行い、本系列の運用を終了した。 クハ201-1は書類上では2020年(令和2年)10月1日現在も保留車となっている。 中央線快速用編成 ← 東京 青梅・高尾・大月 → 10両貫通編成(T編成)号車1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 形式 クハ201(Tc) ◇モハ201(M) モハ200(M') サハ201(T) ◇モハ201(M) モハ200(M') サハ201(T) ◇モハ201(M) モハ200(M') クハ200(Tc') 搭載機器 CHOP MG,CP CHOP MG,CP CHOP MG,CP 車両重量32.6 t 41.7 t 41.5 t 30.6 t 41.7 t 41.5 t 30.6 t 41.7 t 41.5 t 32.6 t 4+6両分割編成(H編成)号車1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 形式 クハ201(Tc) ◇モハ201(M) モハ200(M') クハ200(Tc') クハ201(Tc) ◇モハ201(M) モハ200(M') ◇モハ201(M) モハ200(M') クハ200(Tc') 搭載機器 CHOP MG,CP CHOP MG,CP CHOP MG,CP CHOP:チョッパ制御装置、MG:電動発電機(ブラシレスMG)、CP:空気圧縮機 T編成のパンタグラフは後年に一部を除いてシングルアーム式に換装されている。 一部のH編成8号車では霜取り用のパンタグラフが増設されている。 車両重量は量産車が落成した時点もので、その後の増備車では仕様変更により重量が変更されている。量産車でも後年の改造などにより変更されている場合もある。 2007年3月以降のH編成 ← 東京 青梅・高尾・大月 → 号車1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 形式 クハ201(Tc) ◇モハ201(M) モハ200(M') ◇モハ201(M) モハ200(M') クハ200(Tc') クハ201(Tc) ◇モハ201(M) モハ200(M') クハ200(Tc')
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中央線快速
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 04:24 UTC 版)
中央線快速は国鉄初の新性能電車であるモハ90系の最初の投入線区であり、1957年12月より中央本線の急行電車としてモハ90系試作車の営業運転が開始された。塗装はオレンジバーミリオン(朱色1号)となり、この塗装は後の103系、201系の車体色やE233系の帯色にも継承された。モハ90系は1958年3月より量産車の投入を開始して、増備が続けられた。 当初の編成は基本8両編成と付属2両編成で、最大10両編成の全電動車による運転が計画されていた。しかし全電動車10両編成では変電所の許容量を超えるため、試作車の運転開始直後から限流値を280 Aほどに抑えられたとされており、当初より本来の加速性能を落として運用する状況にあった。その後の性能試験の結果、モハ90系統一までは暫定的に基本編成に付随車2両を挟んだ6M2Tの8両編成で増備されることになり、将来の電動車化を考慮した付随車としてサハ98形が登場している。 1959年6月の形式称号変更により、モハ90形・サハ98形は101系と呼ばれるようになった。1959年11月のダイヤ改正では101系8両基本編成の青梅線乗り入れが開始されたが、変電所容量の関係で青梅線内では電動車1ユニットを無動力として4M4Tで運転された。 101系は10両編成で8M2Tの高い電動車比率であり、付随車も将来の電動車化が想定されていた。しかし電動車の新造費用は付随車よりも約1,000万円高く、国鉄の限られた予算の中で電動車の多い101系を増備するのは割高で大きな負担となった。将来的に101系に統一されても変電所の増強など多大な投資が必要で、将来の輸送量増加にも見合わないことが分かり、国鉄では101系の電動車比率を下げることが検討されるようになった。101系の主電動機性能では4M3Tが限界とされたため、10両編成で6M4Tとなるよう基本編成が4M3Tの7両、付属編成が2M1Tの3両となる編成への組み換えが1960年に行われた。中央線急行電車は1960年に101系で統一された。 1961年3月17日、中央線急行電車は快速電車の呼称に変更された。これは1960年に新宿 - 松本間で急行料金を要する気動車急行「アルプス」の運行が開始されたことにより、急行料金が不要な速達列車を区別するためである。同年3月20日には中央線国電区間の最西端である浅川駅が高尾駅に改称された。1961年投入の101系には高尾以西の狭小トンネル区間にも入線可能な低屋根車800番台も含まれており、平日は中央線快速の運用に入ったほか、休日は新宿 - 甲府間定期列車の代走や高尾 - 相模湖間臨時列車(相模湖臨)などに運用された。 中央線快速電車の車両基地は中野電車区・三鷹電車区・武蔵小金井電車区の3区所に置かれていたが、輸送力増強のため1963年に豊田駅西方に車両基地が開設され、1966年11月10日には豊田電車区が発足した。中野電車区は緩行線電車のみの所属となり、三鷹電車区は地下鉄東西線直通用301系や中央東線普通列車用115系も配置されるようになった。 1967年7月3日、中央線快速の東京 - 高尾間で特別快速の運転が開始された。運行開始当初は前面窓の内側に「特別快速」の小型表示版が掲出されたが、9月には大型のヘッドマークに変更された。この表示版・ヘッドマークには「特」と「快」の文字が大きく書かれていたため、特別快速を「特快」と略す呼称が定着した。 中央本線の支線で国分寺 - 東京競馬場前間を結ぶ下河原線では、日中の閑散時間帯には旧性能車のクモハ40形が使用されていたが、朝夕のラッシュ時や東京競馬場での競馬開催時には101系が運用された。 青梅線では戦後の1949年より中央線との直通運転が行われており、101系も旧性能電車の置き換えで1960年代より氷川・御嶽方面への直通運転列車に使用されていた。1970年4月20日のダイヤ改正で春から秋の行楽シーズン休日に運転される臨時特別快速が設定され、翌1971年より新宿 - 氷川間が「おくたま」、新宿 - 御嶽間が「みたけ」の列車名となった。 1971年2月1日には青梅線の氷川駅が奥多摩駅へ改称されるとともに、奥多摩 - 東京間の直通列車と五日市線の武蔵五日市 - 東京間の直通列車がそれぞれ運転を開始した。1971年10月1日のダイヤ改正では「みたけ」1往復が武蔵五日市発着編成と拝島駅で分割併合を行うとともに、翌1972年より五日市線直通列車に「あきかわ」の愛称が付くようになった。同年7月以降は「おくたま」「みたけ」全列車が「あきかわ」と併結するようになった。当初は濁らない「あきかわ」表記であったが、後に濁る表記の「あきがわ」に変更されている。 1972年10月のダイヤ改正では平日にも中央線と青梅・五日市線を直通する快速電車が増発され、拝島駅で分割併合が行われたほか、併結列車の五日市線乗り入れや五日市線内運用も設定された。 1972年夏には101系の試作冷房車が投入されており、国鉄では103系試作冷房車が1970年に投入されていた山手線に次ぐ2番目の通勤冷房車投入線区となった。中央線快速の101系冷房車は主に特別快速で運用された。 1973年4月に武蔵野線が府中本町 - 新松戸間で開業することになり、101系66両が1000番台に改造されて武蔵野線開業用に転用された。中央線快速には103系冷房車66両が豊田電車区に投入されており、101系を103系に編入したサハ103形750番台が組み込まれた。1973年7月の103系投入では中央線快速の101系8両が関西本線電化開業用に転用され、同年9月に鳳電車区へ転属した。1974年には103系3編成で先頭車が高運転台ATC準備車に差し換えられたが、101系への変化はなかった。 1977年の南武線新性能化に伴い、中央線快速と赤羽線の101系が南武線に転用されることになった。三鷹電車区には京浜東北線から103系冷房車が転入しており、モハ90系が初配置された三鷹電車区の101系の配置は消滅した。南武線は支線を除いて1978年に101系に統一されている。 1978年からは101系の老朽置き換えを目的とした103系の新製投入が開始され、101系は1979年に初の老朽廃車が発生した。103系は高運転台非ATC車の103系も新製投入され、101系非冷房車を直接置き換えたほか、101系冷房改造車が南武線の101系非冷房車置き換え用に転出した例もあった。 1979年には電機子チョッパ制御を採用した201系の試作車が三鷹電車区に投入され、同年8月20日より営業運転を開始した。201系は1981年に量産車が登場しており、三鷹電車区は同年10月に、豊田電車区は1983年3月改正で中央線快速用編成が201系に統一された。101系は武蔵小金井電車区に残存したが、103系はこの改正で101系よりも先に中央線快速から撤退している。 1982年からは武蔵小金井電車区にも201系の投入が開始され、残る101系の置き換えが開始された。置き換えられた101系は大半が廃車になったが、1982年8月の台風10号により関西本線王寺駅の留置線で冠水した101系の廃車代替として101系54両が関西地区に転用されており、そのうち16両が元中央線快速用であった。 1983年9月25日をもって、101系低屋根車で運転されていた高尾 - 相模湖間の休日臨時列車の運転を終了した。翌1984年5月6日には相模湖湖畔で行われたコンサートの観客輸送として高尾 - 相模湖間で101系10両編成の臨時列車が運転されており、101系が高尾以西へ乗り入れる最後の運転となった。 1983年10月1日からは101系の分割運用の一部が201系に置き換えられ、1984年2月1日のダイヤ改正で分割運用が全て201系になった。これにより101系は青梅・五日市線の乗り入れを終了し、201系の分割を行わない10両編成と共通運用となった。中央線快速用101系の定期運用は1985年3月13日をもって終了し、中央線快速は1985年3月のダイヤ改正で201系に統一された。 1985年4月29日には中央線快速101系のさよなら運転が行われ、新宿 - 高尾間1往復での「さよなら電車」の運転をもって中央線快速用101系の運用は終了した。
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